巨人、ヤクルトの元国際スカウトが語る「大物助っ人の意外な素顔」
ホーナー、パリッシュ、ペタジーニ……。一時代を築いた大物外国人の知られざるプライベートを身近にいた通訳兼スカウトが明かす。
打点王4回、本塁打王2回、首位打者1回獲得したアレックス・ラミレス。ヤクルト、近鉄を優勝に導いたチャーリー・マニエル。来日初年に本塁打と打率の2冠を獲得したジャック・ハウエル……。プロ野球ファンなら、誰でも知っている外国人レジェンドたちだ。彼らはいずれも、巨人やヤクルトで活躍でした国際スカウト中島国章氏(64)が発掘した助っ人である。中島氏は40年近くスカウトに携わり、かかわった外国人は100人以上。グラウンドだけでなく、私生活やプライベートの面倒も親身になってみていた。“名伯楽”中島氏が、優良助っ人たちの意外な素顔を明かす。
ホーナー「現金500万円を持ち歩きクラブをハシゴ」
‘87年にヤクルトへ入団したボブ・ホーナーは、ブレーブスでクリーンナップを打っていたバリバリのメジャーリーガーです。来日デビュー戦の阪神戦で初ホーマーを放つと、翌日には3本塁打を記録。メディアも「さすが本物の大リーガー」と絶賛します。
取材はどんどん過熱しました。彼のマンションには連日マスコミが押し寄せ、レストランに入ったら何を食べたのかまで調べる始末。ホーナーも、ストレスが溜まっていったのでしょう。私にこう言って、マスコミには完全に口を閉ざしてしまいました。
「もうボクから語ることはない。キミが好きなように話しておいてくれ」
もともと酒好きでしが、日本で酒量も増えた。遠征先では500万円の現金を持ち歩き、クラブを何軒もハシゴし泥酔。ホテルに戻っても収まりません。
「すべての部屋のビールを持って来い!」
こう叫んで、朝まで痛飲していました。
結局「地球のウラ側にはもう一つの野球があった」という名言を残し、ホーナーは1年で帰国してしまいます。ただ、決して日本が嫌いになったワケではありません。翌年限りでメジャーを引退後、私に次のように話していましたから。
「日本では大きなケガをしなくて良かった。(打率3割、30本塁打以上記録し)ヤクルトに迷惑をかけなくて良かったと今でも思っているよ」
環境になじめずともキッチリ結果を残したホーナーの態度に、本物のプロとはどういうものか教えてもらったような気がします。
パリッシュ「美空ひばりの唄を聴き『米国に帰りたい……』」
「オレの好物はワニの肉だゼ」
こう公言していたのは、’89年にヤクルトで本塁打王となったラリー・パリッシュです。東京・新宿に「アフリカ」というレストランがあり、その店でパリッシュは好んでワニの肉をバクバク食べていました。
しかし豪快なイメージと違い素顔はナイーブ。日本の管理社会になじめなかったのか、酒が入るといつもホームシックになっていました。よく聴いていたのは、美空ひばりさんの「川の流れのように」です。言葉はわからなくても、哀愁漂うメロディに望郷の思いを募らせていたのでしょう。「米国に帰りたい……」と言ってシクシク泣いていた。結局ヤクルトでは2年目の契約をせず、帰国してしまいました
ペタジーニ「食事中も選手の前で奥さんとイチャイチャ」
‘99年にヤクルトへ入団した、ロベルト・ペタジーニの愛妻家ぶりには閉口しました。遠征先にも奥さんを帯同。常に行動をともにしていました。実はペタジーニの奥さんは自分の同級生の母親で、25歳も年上なんです。
私が最初に驚いたのは、来日初キャンプ中に行われたパーティでのこと。選手やコーチ陣が見ている前で、平気で奥さんとイチャつき始めたんです。スプーンでスープをすくい奥さんの口に運ぶ……。そんな姿を見て呆気にとられました。
ペタジーニの家へ遊びに行っても、とにかく“奥さんファースト”でした。ビールがなくなると、買い足しに行くのは奥さんではなく彼の役目。外出する時にはペタジーニが玄関でひざまずき、奥さんに靴を履かしてあげるんです。
一つ間違うとチームの和を乱しかねないペタジーニの愛妻家ぶりを救ったのは、当時の若松勉監督です。「仕事さえしっかりやってくれれば問題ない」と放任。もし管理色の濃い監督なら、ペタジーニも本塁打王を2回獲得できるほど活躍できなかったでしょう。
……………
中島氏によると、日本で成功する外国人選手の妻の多くは強くてたくましいという。異国で思い切り暴れるには、安定した家庭状況が不可欠なのだ。
- 元国際スカウト:中島国章(なかじま・くにあき)
- 写真:中島国章氏提供