抑えるか、打たれるか…チームを背負う「クローザー」の美学 | FRIDAYデジタル

抑えるか、打たれるか…チームを背負う「クローザー」の美学

「ファイアマン」、「ストッパー」から「クローザー」へ。ゲームを締めくくった男たち!

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2013年4月、メジャーのデビュー戦でセーブを挙げた藤川球児(シカゴカブス)
2013年4月、メジャーのデビュー戦でセーブを挙げた藤川球児(シカゴカブス)

無観客試合で日本プロ野球が始まった。声援がない試合も、慣れてくれば集中できるものだ。特に投手の配球の妙、投打の駆け引きなど細かなプレーまで楽しむことができるようになったのは「無音」ならではだ。

開幕から目立つのは、クローザーの失敗だ。6月21日のDeNA-広島戦の広島スコット、6月25日ヤクルト-阪神戦の阪神、藤川球児、6月27日のDeNA-阪神戦のDeNA山﨑康晃。なぜかセ・リーグばかりだが「必勝」の看板を背負ってマウンドに上がったクローザーが、たった1球の失投で試合をフイにするのは悲劇ではある。クローザーにどこか悲壮感が漂うのは、勝てばセーブ、負ければ黒星というがけっぷちの舞台で戦っているからだろう。

クローザーというポジションは、昔からあったわけではない。「セーブ」はNPBでは1974年から導入されたが、当初は、先発投手が掛け持ちで救援でも投げることが多かった。

セ・リーグの初代セーブ王は中日の星野仙一だが、49登板のうち先発でも17試合で投げていた。翌1975年にも、ロッテのエース村田兆治がセーブ王になっている。

そこから次第に投手の分業が進んで、救援専門投手が出てくる。しかし、昭和の時代の救援投手は「終盤の味方のピンチに登板して、そこから試合を締めくくる」ものだった。当時は「ファイアマン(消防士)」といった。文字通り火消し役だったのだ。セーブは、試合の最後を締めくくった(完了)した投手にしかつかないが、ファイアマンは2イニング程度を投げてセーブを記録することが多かった。

こうした投手の代表格は、江夏豊だろう。1976年、阪神から南海に移籍し、野村克也監督の「再生工場」で本格的なファイアマンになった。江夏は最多セーブを6回とっているが、1回の登板でほぼ2イニング前後を投げていた。このころは「イニングまたぎ」をするのが当たり前だった。

その後、「ストッパー」という言葉が定着する。1989年に28セーブで最多セーブを獲得した津田恒実は「炎のストッパー」と呼ばれた。しかしこの年の津田は51登板で83回を投げていた。救援勝利も12あり、まだ「イニングまたぎ」が多かった。

クローザーは原則として「最終回の1イニング限定」で投げる。例外的に延長戦に入ってもう1イニング投げることがあるが、投手成績を見ると、登板数と投球回数がほぼ一致しているのがクローザーだ。また救援勝利もそれほどつかないことが多い。

1イニング限定でセーブを稼ぐ「クローザー」の元祖は、横浜ベイスターズの佐々木主浩だろう。

佐々木は1992年から救援専門投手になり、4回最多セーブを獲得した。1998年の横浜の優勝時には、当時のNPB記録の45セーブを記録したが、登板数51に対し、イニング数は56回だった。横浜の権藤博監督は「投手の肩は消耗品」が持論で、救援投手の消耗を防ぐために「中継ぎローテーション」を形成するとともに、佐々木を1イニング限定のクローザーに固定したのだ。

ほぼ同時期に、ヤクルトの若松勉監督も高津臣吾を最終回限定のクローザーに起用し始める。

2005年に阪神タイガース「JFK」という「勝利の方程式」を打ち出した。ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之という3人の救援投手を「勝ちパターン」で起用したのだ。前の2人はセットアッパー、最後の1人はクローザーだった。クローザーは主として久保田と藤川が務めたが、このときもセットアッパーよりもクローザーのほうがイニング数は短かった。

同じ2005年に46セーブで初めてタイトルを取った中日の岩瀬仁紀は、史上最高のクローザーといえるだろう。NPB記録の407セーブを挙げるとともに、史上最多の1002登板を記録。先発はたった1試合だけ。あとはすべて救援登板。通算イニング数は登板数を下回る985回だった。

クローザーの魅力は「持てる力を1イニングに凝縮させる密度の濃さ」ということにつきる。先発投手のようにペース配分を考えることなく、1球目から全力投球をする。そして優秀なクローザーは、必ず「マネーピッチ(決め球)」を持っている。球種がわかっていても打てないような球で勝負するのだ。

佐々木主浩の「2階から落ちてくるフォーク」
高津臣吾の「高速シンカー」
藤川球児の「火の玉ストレート」
岩瀬仁紀の「死神の鎌(スライダー)」
山﨑康晃の「消えるツーシーム」

MLBでも最多の652セーブをあげたヤンキースのマリアノ・リベラは、ほとんどカットボールだけでセーブの山を築いた。彼らのマネーピッチがビシビシ決まっているときは、相手チームの打者に「あきらめムード」が漂うものだ。

一般的にクローザーはキレのある速球を持っていることが多いが、MLB時代の上原浩治は130㎞/h台のストレートと何種類もの軌道を描くスプリットで打者を手玉に取っていた。まさに名人芸だった。

クローザーは「抑えて当たり前」のポジションだから、失敗するとチームも本人も大きな痛手となる。しかしそれだけに、クローザーの登場シーンは緊迫感がある。

藤川球児は、27日のセーブでNPB通算242セーブとなった。MLBでは2セーブを記録しているので日米通算では244セーブ。名球会の入会基準である250セーブまであと「6」。松坂世代唯一の「名球会入り」をめざして、今年40歳になる藤川は、クローザーとしてこれからもひりひりするようなマウンドに立ち続ける。

  • 広尾 晃(ひろおこう)

    1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。

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