TBS、伊藤忠…社長を続々出した「無名高校ラグビー部の奇跡」 | FRIDAYデジタル

TBS、伊藤忠…社長を続々出した「無名高校ラグビー部の奇跡」

早稲田高等学院ラグビー部の花園初出場のメンバーには三越伊勢丹の副社長、東京海上日動火災、味の素の執行役員もいた!

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1977年、早大学院ラグビー部が名門・国学院久我山に勝って花園初出場をきめた直後。前列右から2人目が寺林努主将、左隣が石井敬太・伊藤忠商事次期社長、左端が竹内徹・三越伊勢丹副社長、左から4番目が本山浩・味の素執行役員、後列右端が佐々木卓・TBS社長

今年1月13日、伊藤忠商事は4月1日付けで石井敬太専務執行役員(60歳)を新社長に昇格させる人事を発表した。本人も「もともとは候補にすら入っていなかったはず。私が一番びっくりしています」と驚く大抜擢でニュースになったが、同時に石井氏が早稲田大学高等学院(早大学院)のラグビー部出身で、「花園」の愛称で知られる全国高校大会に出場した経験を持つ元ラグビーマンであることも話題になった。

石井氏は早大学院2年時の1978年に花園に出場しているが、この年に3年生でキャプテンを務めていたのが、東京海上日動火災保険の元常務執行役員で今回インタビューに応じてもらった寺林努氏だ。

さらに当時の副キャプテンは、2018年にTBSホールディングスの代表取締役社長に就任した佐々木卓氏。石井氏と同期の主将である竹内徹氏は三越伊勢丹の副社長で、味の素の常務執行役員の本山浩氏も、石井氏と同期の花園出場メンバーである。

「困った人がいれば自分の部下じゃなくてもサポートする」

ちなみに当時の早大学院ラグビー部のヘッドコーチは、日本代表や早稲田大学の監督として幾多の歴史的勝利を収めた伝説的名将、大西鐵之祐氏だ。寺林主将と佐々木副将は進学した早稲田大学でも高校時代と同じ主将・副将のコンビでチームを牽引し、大西鐵之祐監督のもとで関東大学対抗戦優勝、全国大学選手権準優勝という好成績を残している。

ひとつの学校の、それも同じクラブから、なぜ名だたる企業のリーダーとなる人材が数多く生まれたのか。そして彼らは早大学院ラグビー部で何を学び、社会人としての糧にしていったのか。リーダーとしてチームを牽引した寺林氏に、当時を回想してもらった。

左が2018年に就任したTBS佐々木卓社長。右が4月1日付で就任する伊藤忠商事・石井敬太次期社長(提供:伊藤忠商事)

自由闊達な校風で、生徒をひとりの人間として尊重し、信頼してくれる。早大学院のカルチャーを、寺林氏はそう表現する。制服はなく、頭髪も自由。一定のルールはあるものの、その範囲の中で生徒が責任を持って自由にやりたいことをやるという文化が、万事に徹底されていた。

「勉強したい人はとことんやるし、部活動に没頭する人もいれば、芸能活動をやる人もいました。それでも先生方はそれぞれの生徒を認めてくれるし、お互いに尊重していた。好きなことに集中できる環境で、我々にとってはそれがラグビーだった、という感じです。自由とは何なのか、そして自由にはどういう責任が伴うかを、高校時代に自然に体感させてもらった。それが社会に出て役立ったという部分は、すごくあると思います」

そうした環境の中で学んだのが、個性を生かすことの大切さだった。

「ラグビー部の大西鐵之祐先生、鈴木埻監督の指導がまさにそうなのですが、とにかく選手の長所を見るんです。もちろん短所もある程度は補うけど、それよりも一人ひとりの長所を前面に押し出す戦い方を考える。そうしたチームづくりを教わりました。これは仕事にも通じる部分で、個性や長所を引き出して、短所は周りのみんながサポートしてカバーする。それができる組織、チームは、強いと感じます」

とはいえ血気盛んな年頃である。とりどりの個性を持つチームメイトたちを束ねるキャプテンの苦労は、並大抵ではなかっただろう。もっとも寺林氏は、「そりゃあ大変でしたが」と苦笑しつつ、「みんなで手をつないで仲良く…というチームではなかった」と振り返る。

「結局は、『まとまる』とはどういうことか、という話だと思います。明確な組織目標があり、そこに向けてみんなのベクトルを結集させた状態が『まとまる』というのであれば、あの時のチームは間違いなくまとまっていました。決して仲が良かったわけではありませんが、全員がチームの戦い方と自分の役割を認識して、それを遂行できた」

早大学院ラグビー部史上初の花園出場を成し遂げた仲間には、それだけの顔ぶれがそろっていた。当時の仲間のキャラクターを、寺林氏はこう評する。

「私は極めて単純で、やると決めたら突き進んでいくタイプの人間です(笑)。目標を達成するためには嫌われても平気だったし、耳が痛い言葉もずいぶん言いました。逆に佐々木卓はすごく頭が良くて、ロジカルに話をできるし、人当たりも柔らかい。そのおかげで、高校も大学もチームが崩壊しなかったのだと思います。私だけだったら、完全に分裂していたでしょう。

ひとつ下の代のキャプテンだった竹内徹は、明確に物を言うタイプ。石井敬太はたしか竹内と同じ中学の出身で、すごく優しくてバランス感覚がありました。彼が伊藤忠の社長になることが決まった時、新聞で『困った人がいれば自分の部下じゃなくてもサポートしていた』という記事を読みましたが、彼らしいな、と感じましたね。

当時のポジションは敬太がフランカーで、ロックは竹内といま味の素の本山浩の2人。私はナンバー8で、一緒にスクラムを組んでいました。その後ろにスクラムハーフの卓がいて、我々をうまくコントロールしてくれた」

早大高等学院が花園出場を目前に控えた時期の新聞記事。右の欄の予想メンバーには寺林主将(◎の印)をはじめ、FW陣に味の素の執行役員・本山浩氏、三越伊勢丹の副社長・竹内徹氏、伊藤忠商事次期社長・石井敬太氏、HBの欄にTBS社長の佐々木卓氏の名前が並ぶ
2019年6月、日本の伝統文化を世界に発信するため、スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)ヤマトタケル」の記者発表。TBS佐々木卓社長(右端)はキャストの市川猿之助、松竹の迫本淳一社長と並ぶ(共同通信)

練習中にいきなり直面した重大な転機

早稲田大学直属の附属校である早大学院は、都内屈指の受験難関校だ。兄貴分の大学と同じエンジと黒の段柄ジャージーをまとうラグビー部は学内で存在感あるクラブだったが、國學院久我山や目黒(現目黒学院)など全国トップクラスの強豪がひしめく当時の東京では、ベスト16あたりが定位置だった。事実、寺林氏が2年時の全国大会予選は、3回戦で敗退している。

都大会で上位には進出するものの、強豪校の壁を破れない年が続いていた早大学院ラグビー部に重大な転機が訪れたのは、寺林氏が2年生の時だった。スクラムの練習中、最前線で組んでいた3年生のプロップの先輩が、脊椎損傷の重傷を負った。

「まさに私も組んでいるスクラムの中でした。その方は現在も車椅子生活をされています」

部の存続にも関わるほどの衝撃の中、動揺する部員たちを支えたのが、当時ヘッドコーチを務めていた大西鐵之祐氏や鈴木埻監督、伴一憲部長ら指導陣と、多くのOB、学校関係者だった。ケガを負った部員への献身的なサポートとともに、各所を奔走して、生徒たちがラグビーを続けられる環境を懸命に整えてくれた。この時、寺林氏の心の中で、ひとつの覚悟が生まれた。

「それまでの私はラグビーの苦しさから逃げることばかり考えていました。しかしそこで、ラグビーとはこれほど厳しいスポーツなのだ、ということを痛感したんです。それ以降、グラウンドに入ったら常に緊張感を持って、甘えた空気は絶対に作らないよう肝に銘じて取り組むようになりました。話をしたわけではありませんが、おそらく副将の佐々木卓も、同じことを考えていたと思います」

取材に応じた寺林努氏は早大学院-早大でラグビー部主将をつとめた。

果たしてその翌年、早大学院は予選決勝で國學院久我山を9-6で破り、花園初出場を決める。進学校の生徒たちが、それも激しい身体接触をともなうラグビーという競技で全国有数の強豪を倒したのだから、その勝利は高校スポーツの枠を超えて大きな話題となった。

「新聞には『鉛筆より重いものを持ったことのない生徒』とか、『テストで平均80点以上の勉強のできる子どもたち』とか、いろいろと書いてありましたね。事実とはまったく違いましたが(笑)」(寺林氏)

大阪の花園ラグビー場で開催される全国大会は初戦で兵庫代表の報徳学園に4-4の引き分け、抽選で敗退となったものの、激戦区・東京を勝ち抜いて花園出場の切符をつかんだ早大学院の快挙は、いまも高校ラグビーファンの語り草だ。

ちなみにその時の國學院久我山には、のちに早稲田大学で寺林氏の1年後輩となる2年生のスタンドオフ本城和彦をはじめそうそうたるメンバーがそろっており、翌年は全国大会決勝で40-6で黒澤尻工業を下し、圧倒的な強さで全国制覇を遂げている。寺林氏は言う。

「学院や早稲田で体験させてもらったこと、大西先生や鈴木監督、部長の伴一憲先生に教わったことを、ことあるごとに振り返りながら仕事に取り組んできました。パーソナリティが違うからやり方は当然違うでしょうが、卓や石井敬太も、ベースはそこにあるんじゃないかと思います。石井敬太が新聞のインタビューで『ひとつのことに魂を込める』と語っていましたが、やっぱり彼も同じなんだな、と感じましたね」

個性を尊重する環境と純粋に愛情を注いでくれる指導者たちの存在、さらには人生観が変わるほどの経験によって育まれ、磨かれた人間性が、社会で羽ばたくための礎となったのかもしれない。

  • 取材・文直江光信

    1975年熊本市生まれ。県立熊本高校を経て、早稲田大学商学部卒業。熊本高でラグビーを始め、3年時には花園に出場した。現在、ラグビーマガジンを中心にフリーランスの記者として活動している。著書に『早稲田ラグビー 進化への闘争』(講談社)

  • 写真提供寺林努氏

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