初代五輪王者!練習仲間が明かす堀米雄斗の「原点秘話」
「私は雄斗の父の亮太さんとスケボー仲間で子供のころから知っていますが、まさに天才でしたね。雄斗は私たちの世代のプロスケートボーダーのビデオを一緒に見ながら、雄斗は親父と『この技はカッコイイ、カッコ悪い』なんて話しながらドンドン技を覚ええていく。皆がやりたがる技は誰よりも上手くやるし、技を組み合わせて新たな技も編み出してしまう。おそらく当時世界最年少記録の9歳で最高難易度のマックツイスト(空中で540度回転する技)を普通に成功させていました」
そう打ち明けるのはスケートボードショップ『instant』代表の本間章郎氏。東京五輪の新種目・スケートボード男子ストリートで金メダルを獲得した堀米雄斗(22)の、初のスポンサーである。
街中にある階段や手すりを模したフィールドで「トリック」という技を披露するストリート。堀米の「強さの原点」は意外なところにあった。
「実は雄斗は小学生のとき、目がものすごく悪かったんですよ。見えない方向に飛ぶ技では、足の感覚だけでもデッキ(ボードのこと)を操作するんです。それは他の選手にとっては恐怖でしかない。目が悪いかったこそ、見えないことへの恐怖感が他の選手に比べて少ない。それが今の大胆で、失敗を恐れない滑りにつながっていると思います」(本間氏)
堀米がプロスケーターの父・亮太さんの影響でスケートボードを始めた6歳のこと。 「ちょっと生意気で、やんちゃでしたね」とほほ笑むのは、堀米が小学生時代に通っていた練習場『ムラサキパーク東京』の初代店長、栗田秀樹氏だ。
「昔、パークのなかにゲームセンターがあって、『UFOキャッチャー』で、仲間たちとヘリコプターのラジコンを取ったことがあったんです。嬉しくなって皆で飛行距離を競っていたら、雄斗が『オレもっと飛ばせる』と、電波が届かないところまで行かせて、墜落させてました(笑)。とにかく負けず嫌いでしたね。やんちゃだったけど、とにかくスケートボードに夢中でした。
お父さんが早いうちに才能を見出して、環境を上手く整えた。雄斗はもともと『バーチカル』というハーフパイプを滑り降りる競技の選手だった。中学のころに、ウチで練習していたあるプロスケートボーダーが『ストリートやってみない?面白いよ』って誘ったんですよ。そこからまた一気にスケートボードにのめりこんでいきました。それが転機だったかもしれません」
中学時代の練習仲間で、現役プロスケートボーダーの田中陽氏が振り返る。
「堀米さんは天才、天才と言われますが、とにかく誰よりも滑っていた。学校が終わるとすぐに練習場に来て、5~6時間は練習していました。監督もコーチもいないので、自分で考えながら滑っていましたね。才能も努力量もズバ抜けていて、当時すでにプロの資格を持っていましたしね。目指しているステージが中学時代から違いました。常に『アメリカで通用するプロになりたい』と語っていましたから。それに本番での強さは別格ですね。大一番で大技をしっかり決めてくる。既存のスタイルに縛られず、自分で編み出した技を本番で繰り出すメンタルも凄まじいです」
17歳で本場の米国へ武者修に出て、才能を一気に開花させたのは周知の通りだ。
「中学時代は『大会の賞金は米国への渡航費にする』と言っていました。父の亮太さんも現役時代は世界でトップになろうとしていた。その背中を見ていたんでしょね。本人たちは認めないけれど、二人三脚で掴んだ金メダルだと思います」(前出・本間氏)
下町のやんちゃ少年から金メダリストへ。もうスケートボードを「不良のスポーツ」だと揶揄する者はいないだろう。
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- 写真:JMPA アフロ