空襲で親を失った戦災孤児が証言する「地獄の飢えと身近な死」 | FRIDAYデジタル

空襲で親を失った戦災孤児が証言する「地獄の飢えと身近な死」

ノンフィクション作家・石井光太が知られざる戦争の真実に迫る

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上野や東京など大きな駅にたむろしていた浮浪児たち。なかには写真のようにタバコを吸う少年も(画像:共同通信社)
上野や東京など大きな駅にたむろしていた浮浪児たち。なかには写真のようにタバコを吸う少年も(画像:共同通信社)

「毎年8月15日は終戦記念日っていうけど、幼い頃に親を戦争で殺されて、路上で暮らさざるをえなかった俺たちにしてみれば、終戦が終わりじゃなく、それからの月日の方がずっとつらかったんだ。だから、毎年夏に黙とうしている人を見ると、『敗戦後が本当の地獄だったんだぞ』って言いたくなる」

今年で、太平洋戦争の終結から76年目の夏を迎える。

私が思い出すのは、東京の上野駅の地下道で路上生活をしていた戦災孤児たちの冒頭のような言葉だ。戦争で両親を失い、たった一人で路上で生きていくことになった戦災孤児は、数万人単位でいたと言われている。彼らは「浮浪児」と呼ばれていた。

私は上野駅に集まった元浮浪児たちを、7年前に日本ではほぼ初めて体系的に取材し、『浮浪児1945―戦争が生んだ子供たち』(新潮文庫)というルポルタージュにまとめた。だが、本書に出てくる元浮浪児たちの8割は、取材を開始してから11年の間に死没した。

東京五輪とコロナ禍で、終戦の記憶が薄れがちな今年の夏、あの浮浪児たちの見た戦後をたどってみたい。

浮浪児が上野に集まった二つの理由

戦後、焼野原をさまよっていた浮浪児たちは、3歳~12歳くらいだった。戦争末期、日本各地で米軍による空爆が行われた。それによって家族を失ったり、生き別れたりしたことで、子供たちは裸一貫で生き延びていかざるをえなくなったのだ。

なぜ浮浪児たちは上野に集まったのか。大きく二つの理由があった。

・駅の地下道が空襲の被害を逃れ、寝場所になった。

・駅の正面に、巨大な闇市(現・アメ横)ができて栄えた。

寒い季節には、地下道は子供から大人までのホームレスが4000~6000人もあふれ返り、連日のように餓死者や病死者が出ていた。

元浮浪児は次のように言った。

「地下道は身動きできないくらいの浮浪者であふれ返っていたよ。ちょっとでも離れれば寝場所を奪われてしまうので、小便や大便は垂れ流しだ。朝になって起きない人間は、死んでるか、息も絶え絶えの病人かだった。それが子供でも女でも、誰も助ける余裕なんてない。昼間になれば警察官がやってきて、死んでいる人間を見つけては運び出していた。解剖の練習台にされるって噂だった」

当時の報道では、冬には毎日数人が死亡しているとされていた。だが、実際にそこに暮らしていた者たちによれば、「間違いなく10人以上死んでいた」という。

浮浪児たちの主な仕事は、駅での新聞売り、クツみがき、切符の並び代行、あるいは闇市での皿洗い、物ひろい、中にはヤクザの手先となってスリやひったくりで食い扶持を得る者もいた。

だが、思うように稼げない日もあった。そんな時、彼らは野良猫を殺して食べたり、ザリガニやバッタを捕まえて食べたりして飢えをしのいだ。

彼らの最大のごちそうは、「残飯シチュー」だ。進駐軍の食堂のゴミをもらってきて、巨大な鍋にぶち込み、ごった煮にした闇市の人気メニューだ。何が入っているのかは、その時々で異なり、煙草やネズミの死骸、時にはコンドームまでまじっていたが、肉の味が染みたそれは彼らにとって最高のごちそうだったそうだ。

終戦から半年ほどすると、上野の浮浪児の生態系が変わりはじめる。

それまでは空襲で親を失った孤児たちが大半だったのだが、戦争から帰ってきた父親が心を荒ませ、今でいう家庭内暴力や虐待をするようになった。そうした家の子供たちが親元から逃げ出し、新たに浮浪児となって上野に住みついたのだ。

元浮浪児は次のように述べる。

「昭和21(1946)年を過ぎて上野に来るようになった子たちは、すごく怖かった。今でいう不良だよ。もともといた俺たちに恐喝をしたり、引ったくりをしたりした上に、寝場所まで奪い取った。それで俺たちは上野を離れざるをえなくなったんだ」

ヤクザとの親和性

親から暴力を受けた子供たちは、力で戦災孤児たちをねじ伏せて自らの居場所をつくっていったのだ。

上野の浮浪児の多くが、家出少年たちに取って代わると、一般の人たちは浮浪児を悪人のように見なすようになる。彼らは浮浪児を「野良犬」「ルンペン」と蔑み、あからさまな差別意識を膨らました。いつの間にか、「親を失ったかわいそうな子供」から「町を荒らす不良たち」に変わったのだ。

不良化した路上の子供たちは、やがて闇市を支配していた博徒、テキヤ、愚連隊といった悪い大人たちに取り込まれていく。後の暴力団、つまりヤクザだ。

ヤクザと子供たちの相性は悪くなかった。ヤクザたちにしても、もともとは家庭や周りに恵まれなかった者たちだ。彼らは似たような境遇の子供たちをかわいがったし、子供たちの方もヤクザに憧れた。

浮浪児からヤクザになった一人の石原伸司は語る。

「浮浪児からヤクザになった者はすごく多かった。俺がヤクザになって、その筋の人間との付き合いが多くなると、しょっちゅう『おまえノガミ(上野の別称)にいただろ。俺のこと覚えてるか』みたいなことを言われたよ。路上でフラフラしているうちにヤクザの手下になって、そのままのし上がっていった連中がたくさんいたんだ」

ちなみに、石原は2018年に強盗殺人事件を起こしたのちに隅田川で入水自殺をしている。

彼の話では、浮浪児だった頃、仲間たちがつらい生活に耐えかねて、目の前で頻繁に隅田川に飛び込んで自殺をしていたそうだ。空腹や寂しさに耐えかねて自死を選んだという。

戦後70年以上経って、石原が同じ隅田川に身を投げたのは、少年期の暗い体験とは無縁ではなかっただろう。

他方、上野から追い出された戦災孤児たちは、「ドサ回り」といって、地方の農村や漁村を放浪するようになった。北は東北、南は九州まで無賃乗車で周り、農作物や魚をもらって食いつないだのだ。

彼らを待ち受けていたのは、大きく二つの現実だった。

一つが、人買いと呼ばれた人身売買のブローカーにつかまり、労働者として売り飛ばされるケースだ。

当時は、戦争によって労働人口が大幅に減り、工場でも商店でも人手がまったく足りていなかった。そこで店主たちの一部が、それをおぎなうべく、人買いから子供たちを買い取り、強制的に児童労働をさせていたのだ。

貧しい家庭でも、米俵と交換に子供たちが年季奉公に出されていた時代だ。親がおらず、地方をさまよっている浮浪児たちは、格好の標的となったのだろう。

二つ目が、ドサ回りの先で出会った農家などに養子として引き取られていくケースだ。

多くの家庭では、戦争によって家主や跡継ぎが失われており、未亡人が娘とともに家業を支えていることが珍しくなかった。そのため、未亡人は地方を回っていた浮浪児を呼び止めて、こう言うことがあった。

「もし家がないなら、うちの養子になって仕事の手伝いをしない?」

子供たちの中には安定した生活を求めて養子となり、家業を手伝って生きていく子もいた。

「みんなが飢えていた」

話を上野にもどそう。

上野で家出少年たちが違法行為をくり返すようになると、警察は本格的に取り締まりを強化した。それが「かりこみ」だ。警察や自治たちによる、浮浪児の一斉検挙である。

かりこみは、寝静まった夜明け前に行われるのが常だった。警察官と役所の職員たちが合同で地下道の出口をふさいでから、笛を合図に一網打尽にするのだ。身柄を押さえられた子供たちはトラックの荷台に押し込まれ、今でいう児童養護施設へと送られた。

だが、浮浪児たちの多くは、数日のうちに施設を脱走して上野にもどっていった。なぜか。元浮浪児の一人はこう語った。

「戦後は食糧難で、施設の職員が俺たちの食べ物を持って帰ってしまっていたんだよ。家で家族と食べたか、闇市で売ったかしていたんだろうな。だから、施設の子供たちはみんな飢えていた。文句を言えば、殴られて、『腹が減ったら庭でイモを耕せ』と言われる。でも、イモができるまで待ってたら餓死しちゃうだろ。だったら上野にいた方がずっとマシだと考えて、逃げ出すんだよ」

そんな浮浪児たちに、本当の意味で手を差し伸べた大人もいた。今も中野区にある児童養護施設「愛児の家」の創設者の石綿さたよがその一人だ。

石綿は私財を投じ、上野の地下道で眠っていた子供たち一人ひとりに声をかけ、自宅に住まわせ、学校へ通わせた。その数はあっという間に百人を超えた。

戦後の上野で、浮浪児たちがどんな現実を目の当たりにし、どうやって生き延び、愛児の家に引き取られ、そして戦後の時代を今に至るまで生き抜いていったのか。詳しくは『浮浪児1945―戦争が生んだ子供たち』を読んでいただきたい。

ただ、元浮浪児たちの胸の内を象徴しているのが、インタビューの最中に言われた次のような言葉だ。

「戦争っていうのは本当に悲惨なものなんだ。戦争が終わったって、一番弱い孤児たちが何十年も苦しまなければならない。それなのに、俺たちはみんな学校も行けず、読み書きができないから、体験を人につたえることができない。だから、代わりにあんたが俺たちの思いを書き残してくれよ」

終戦当時、小学生くらいだった浮浪児たちは、80代を迎えている。あと数年もすれば、私が話を聞いた数十人の元浮浪はほとんどいなくなるだろう。

五輪だろうと、コロナ禍だろうと、毎年夏に耳を澄まさなければならない声はある。

  • 取材・文石井光太

    77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。日本大学芸術学部卒業。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『「鬼畜」の家ーーわが子を殺す親たち』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』『浮浪児1945-』などがある。

  • 写真共同通信社

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