いじめ、暴力、地域差別…あるベトナム人ギャングの悲痛な記憶 | FRIDAYデジタル

いじめ、暴力、地域差別…あるベトナム人ギャングの悲痛な記憶

ノンフィクション作家・石井光太が日本社会の深層に迫る!

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東南アジアからの難民が多く定住した神奈川県大和市の「いちょう団地」。ゴミ回収の説明言語も多国籍だ。ここには「共存」のひとつの姿があるが、日本社会全体で見れば、融和が進んでいるとはいいがたい(撮影:石井光太氏)

日本の歓楽街には、東南アジア系の夜の店が多数ある。外国人パブ、マッサージ店、スナック、それに売春店。マンションで、美容室やネイルサロンを無許可営業していることもある。

こうした店の多くが、日本の暴力団ではなく、東南アジア系のギャング組織の支配下に置かれていることを知っているだろうか。コロナ禍で豚を盗んだベトナム人が報じられたことがあったが、あれは新参の不良グループだ。裏では、20~30年前から、東南アジア系のギャングの存在があった。

日本における、彼らの悲しみに満ちた歴史と今について光を当てたい。

日本に来た1万人以上の難民

日本に東南アジアからの移民が多数押し寄せたのは、1970年代から90年代だった。

原因は、ベトナム戦争だった。アメリカが東南アジアへの影響力を強めるべく起こした戦争は、ベトナムだけでなく、近隣のカンボジア、ラオス、タイといった国々をも巻き込んだ。

1975年、ベトナム戦争はアメリカ史上初の敗戦という形で幕を閉じる。この時、アメリカは軍隊や駐在員をいち早く東南アジアから撤退させた。つづいて、アメリカ側についていた現地住民たちも、報復を恐れて海外へ逃げだした。これがインドシナ難民と呼ばれる人たちだ。ボートで海に逃げ出したことから「ボート・ピープル」とも呼ばれた。その数は約140万人に及ぶとされており、うち1万人以上が難民として日本にやってきた。

日本に来たインドシナ難民たちが定住したのが、神奈川県大和市と兵庫県姫路市だ。ここに財団法人アジア福祉教育財団が運営する定住促進センターが設置されたことで、周辺にインドシナ難民が暮らすようになったのである。

インドシナ難民が多数定住する団地としては、大和市の「いちょう団地」が有名だが、姫路市にも「市川団地」や「勅旨団地」といった市営団地がある。そこには、今なお大勢の外国人が住んでいる。

だが、着の身着のままで海を渡ってきた難民にとって、日本での暮らしは必ずしも優しいものではなかった。

後にギャングとなるベトナム人のグエンは次のように言う。

「団地に俺が来たのは、小学3年の時。日本の学校には、1週間も行かなかった。日本語わからないし、いじめもメチャクチャ。家は貧乏。だから、家の手伝いをして、11歳から働いた」

グエンは8人きょうだいの下から2番目だった。難民の受け入れ国は抽選によって決められるため、家族全員で同じ国へ行けるわけではない。両親はアメリカ、次男夫婦は日本、長女夫婦はオーストラリアとバラバラになった。グエンは、先に来日した次男を追う形で日本に来たそうだ。

グエンは、戦争のせいで国ではろくに教育を受けられなかったし、日本語も学んでいなかった。そのため日本の学校に転校しても、勉強についていけず、日本人の同級生からいじめられ、地域住民の差別にもあった。わずか数日で不登校になり、そのまま貧しい家庭を支えるため家事を担い、11歳からは次男に紹介された縫製加工会社で働きだした。児童労働だったため、日給は1000円ほど。全額を家に入れていたそうだ。

そんなグエンにとって唯一の気晴らしが、団地の人々との交遊だった。夕方になると、団地の駐輪場や空き地には仕事から帰ってきた男たちがビールを片手に飲み会やバーベキューをはじめる。日本で肩身の狭い思いをしている難民たちにとって、同じ境遇の者同士で騒ぐのがストレス発散だった。

盗んだ商品を転売

東南アジアからの難民が多く定住した神奈川県大和市の「いちょう団地」(撮影:石井光太氏)

グエンは言う。

「毎日いろんなグループが外で飲んでた。ラジカセで音楽流して、大きな声で歌う。ベトナム人だけじゃなく、カンボジア人、ラオス人もいた。みんな難民で貧乏。でも、酒飲んで、歌っていれば幸せだった」

だが、バブル崩壊以降の不景気の中で、難民たちはリストラの対象になり、失業者も増えていった。祖国に帰ることも、日本で仕事を得ることもできなくなった人たちの中には、犯罪に手を染める者もいた。

スーパーから商品を盗んで、同じ東南アジアの人々が経営する食品店や雑貨店に格安で転売する者。日本人にだまされて夜の店で働かされていた外国人女性を助け、一緒に売春業を営む者。団地に暮らす暴力団関係者(暴力団が貧困ビジネスに目を付けて入り込んでいた)から覚醒剤や大麻を買い、外国人に転売する者……。

不良たちは団地で知り合い、グループを結成するようになった。彼らは、他の難民より金があり、羽振りもいい。グエンのような子供たちは、彼らに憧れを抱くようになり、かわいがってもらっているうちにグループのメンバーとなる。

グエンは言う。

「学校へ行ってない子供はみんな、グループが好きだった。いつでもご飯を食べさせてくれるし、小遣いもくれる。会社では朝から晩まで働いて日給1000円。だけど、団地のグループと仲良くしていれば、ボスの煙草を買いに行くだけで1000円くれた。ビールを買いに行ったらまた1000円。こっちの方が楽だし、おもしろい」

子供たちにしてみれば、日本人が経営する企業で差別を受けながら児童労働をするより、どうせ同じ違法行為なら不良グループとつるんで自由を謳歌していた方が楽だ。それでだんだんとグループのシノギを手伝うようになっていく。

1990年代から2000年代にかけて、グエンのような子供が大人になることでグループは、犯罪集団となっていった。

こうしたグループは団地を飛び出し、それぞれの繁華街に縄張りをつくった。神奈川県であれば、大和・綾瀬・座間を縄張りにするグループ、横浜を縄張りにするグループ、相模原を縄張りにするグループ、平塚・茅ヶ崎を縄張りにするグループなどに割拠しているそうだ。

グループが支配下においているのは、あくまで東南アジア系の人たちだ。冒頭で述べた、東南アジア系の夜の店や無許可の店から、ごく普通の料理店にまで及ぶ。

日本で働く外国人たちは、警察を信頼していない。だから、客とのいざこざや店同士の衝突など何かトラブルがあった時は、警察ではなく、東南アジア系のギャンググループに解決を依頼する。グループは解決を手伝う代わりに、日本でいう「みかじめ料(用心棒代)」を徴収する。

グエンは言う。

「日本のヤクザとはぶつからない。ヤクザは言葉の通じない外人をコントロールできない。外人もヤクザが嫌い。だから、俺たちが、ヤクザの代わりに店を助ける。俺たちはヤクザからシャブ(覚醒剤)やハッパ(大麻)を買ってるから仲いい。ヤクザからは何も言われない」

同じ繁華街でも、暴力団の支配圏と外国人ギャングの支配圏とでは棲み分けができているのだ。

東南アジアから来た外国人花嫁の行方

グエンによれば、グループが結成当初から一貫してやってきたのは、こうした用心棒の仕事の他に、人材派遣業があるという。1990年代から2000年代の不景気の時期には、日本の企業でリストラにあった東南アジア系の人々があふれた。グループは、そういう人たちを集め、人材派遣業を開始したそうだ。

同じ頃、日本では外国人花嫁が急増していた。日本人男性が東南アジアへ行き、20歳そこそこの女性を花嫁として買って連れてくるのだ。人身売買同然の行為も少なくなかった。

女性の中にはだまされて連れてこられたり、日本人の夫から暴力を受けたりする者もいた。彼女たちは耐えかねて家から逃げだすものの、一人で生活していく術がない。そんな彼女たちが頼るのがグエンのグループのようなところだった。

グループは彼女たちを保護してかくまう代わりに、外国人パブの仕事を紹介したり、自分たちで外国人パブを経営したりした。それがグループのシノギになっていったのである。

グエンは言う。

「最近多いのが、逃げだした技能実習生。日本の会社は、実習生に給料払わないとか殴るとかあるでしょ。実習生は会社から逃げるけど、借金があるから国に帰れない。そんな実習生が俺たちを頼ってくる。俺たちは彼らに仕事を紹介してあげる」

技能実習生の中には不当な扱いを受けて失踪する人が後を絶たない。その数は毎年一万人近くに上る。だが、彼らは借金をして日本に来ているので、そのまま母国に帰るわけにいかない。そこで頼るのが外国人ギャングなのだ。

グエンらは、ビザを持たない外国人を雇う企業を知っている。そこに失踪した技能実習生を紹介し、マージン(手数料)を受け取るのだそうだ。

こう見ていくと、外国人ギャングは日本の社会問題の写し鏡だといえるのではないだろうか。違法行為をする外国人ギャングを批判するのは容易い。だが、なぜ彼らが生まれたのかを考えてみる必要がある。

日本政府はインドシナ難民を受け入れながら、地元では差別や貧困を強いることを許してしまった。彼らは教育からこぼれ落ち、仕事も得られず、ギャングとして生きていくしかなくなった。

その後も、日本は外国人を都合よく招き入れた。外国人花嫁、技能実習生……。彼らが家庭や企業からはじきだされても、きちんと救いの手を差し出してこなかった。そのことがギャングたちのシノギを生み出すことになった。

日本社会における外国人政策の欠陥が、今の状況を生み出している。今後、もし多文化共生ということを本気で考えていくならば、こうした社会構造のゆがみをきちんと見つめ、改善していかなければならないだろう。

  • 取材・文・撮影石井光太

    77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。日本大学芸術学部卒業。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『「鬼畜」の家ーーわが子を殺す親たち』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』『浮浪児1945-』などがある。

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