三國連太郎に道を開いてもらった宝塚OGがはじめた「恩返し」 | FRIDAYデジタル

三國連太郎に道を開いてもらった宝塚OGがはじめた「恩返し」

今年で芸歴40年。元タカラジェンヌ・植野葉子さんが振り返る人生

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1988年7月、「永遠物語」の公演の楽屋にて。現在、ミュージカル「マイフェアレディ」に出演中の元タカラジェンヌ、春風ひとみ(右)と撮影(写真:本人提供)

1982年に宝塚歌劇団に入団して今年で芸歴40年を迎えた植野葉子(うえの・はこ)さんは7年間在籍した宝塚を退団後も、すぐに新しい仕事に恵まれた。

1989年に上映された勅使河原宏監督の映画『利休』で三國連太郎(故人)と共演し、さらに4年後の1993年、歌手・中島みゆきと巡り合い、95年「夜会Vol.7 2/2(にぶんのに)」以来、再演、再々演に双子役で出て以降、「夜会」の4公演に出演した。仕事では誰もが羨む良縁に恵まれていたかげで、子供を出産できなかったことへの複雑な思いも吐露した。そんな植野さんはコロナ禍の今、「必要とされる場所で役に立ちたい」と新しい活動をはじめた。

自ら切り開いた「原田芳雄との縁」

「私の人生は運が良くて、そのことによって助けられてきた人生です。なので、それをかなえてくれた恩は、みなさんに返すことだと感じて、実際にはじめた活動もあります。自分が必要とされる場で生き生きと輝いて、それが他人様にとっても喜ばれるのであれば、それはうれしいですよね」

「中島みゆきから『一緒に…』と共演を熱望された宝塚OGの人生」の記事内でも紹介した通り、「運が良かったことがあまりにも多く恵まれてきた人生」という思いに、偽りはないだろう。3歳から憧れた宝塚歌劇団に入学を果たし、月組では大地真央や黒木瞳、剣幸らと同じ舞台に立った。

退団して女優になった後も、三國が当時、松竹のプロデューサーだった門井均氏を紹介してくれた。その門井氏との縁によって、2013年にブロードウェイ版『ロミオとジュリエット』の演出を務めたデビッド・ルボーや、リチャード・ギアの『BENT』などの舞台演出を手がけたロバート・アラン・アッカーマン(故人)といった、世界的な演出家と一緒に仕事をすることもできた。

植野さんにもともと備わっていた運の強さはあるかもしれない。ただ、植野さん自身は「運の強さ」だけに頼っていたわけではなかった。「魅力的だ」「この人の話を聞いてみたい」と感じた人のもとには自ら出向いていた。

「私の行動力は母譲りだと思います。母の歳は内緒ですが、一人で今でもライブハウスや芝居、宝塚にも出向きます。そんな母の姿を見てきたので、私も興味深いもの、好きなものを見つけては突き進んでいくんだと思います。母に感謝ですね」

俳優、歌手として活躍し、2003年に紫綬褒章も受章した原田芳雄(故人)とつながるきっかけは、自力で切り開いたものだ。

「松田優作さんと同時期に活躍されていたときからTVで見て憧れていました。私には兄が3人いるのですが、兄たちにはなかったアウトローな感じに惹かれました。当時は単なるファンです。

宝塚歌劇団にいた19歳の頃、時間が少しできたときに、ライブハウスで原田さんが歌っているという情報を聞いて、一人で神戸で行われたライブハウスのライブを聴きに行きました、薔薇一輪を持って…(笑)」

観に行っただけでは終わらなかった。ライブハウス終了後、会場にいたスタッフに声をかけ、出待ちのやり方を聞き出し、奇跡的に面会がかなった。

そして、宝塚歌劇団での公演の合間を縫って、原田のライブを聴きに足を運ぶようになった。回数を重ね、顔を覚えられるようになると、毎年末、原田の自宅に俳優仲間やスタッフなどが招かれる「餅つき大会」にも声がかかるようになった。植野さんは振り返る。

「原田さんは兄貴分で、自分の周囲にいる方々をすごく大事にされるんですよ。皆さんとの会話とかでも周囲を緊張させないし、私が伺っても『ここにいさせてもらっていいんですか』と言わせない雰囲気といいますか…。原田さんもそうですし、三國さん、中島みゆきさんもそうですが、皆さん肩に全く力が入っていなくて、舞台やブラウン管の向こう側ではなく、本当に“ココ”で話してくれるような感覚を持たせてくださる人たちでした」―。

撮影:長濱耕樹

芝居の深い話ができるようになると、原田から『芝居は真剣に遊べ』と言われた。
その言葉は今でも自問自答を繰り返す大事な言葉だ。

「(舞台上では緊張は強いられるが)自分が楽しめるまでとことんやれよと、いうことだと思います」

1989年に上映され、のちにブルーリボン賞に輝いたボクシングを題材にした日本映画『どついたるねん』でも原田は役作りの為に、自宅の庭にダミーを釣って、毎日5、6時間ボクシングのトレーニングに励んでいた。原田のように、一緒にいる相手が肩の力が入らない存在でありたい。そしていざ自分が表舞台に立つときは、楽しめるほど準備をしてのぞみたい。

なぜボランティアで那須に通うようになったのか

思えば、植野さんが一緒に仕事をした前出のデビット・ルボーやロバート・アラン・アッカーマンなど海外の演出家たちも、過去に植野さんが共演した“大御所”たちと同じことを言っていた。

「常にリラックスだよ」「ハコ!、その自然な感じがいいんだよ」

そう言われ続けることが植野さんに「肩の力を抜く」「ほぐす」ことへの意識を高め、新たな仕事を生み出すきっかけにもなっていた。植野さんがはじめた「hako’s be exercise」。特に海外では演劇の世界でもリラックスできる「シアター・エクスサイズ」として高いニーズがある。植野さんが続ける。

「シアターエクササイズというのは、簡単にいうと、自分を知る、人とのコミュニケーションを取るトレーニングです。主に俳優さんが取り組んでいるのですが、私はやればやるほど、普通の人にもあったらいいと思ったんです。

俳優の世界では、いきなり『初めまして』の相手役の方と恋人同士にならないといけなかったりするわけですよ、毎日。その緊張の距離感をどう埋めていくのか。その点は俳優さんにとどまらず、たとえば夫婦で喧嘩してしまったとき、反抗期の頃の親子にも十分応用可能で、ハートの面もほぐしてくれる。実際に外資系の保険の営業マンの方々にもエクササイズしたこともありますよ」

昨年10月、新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除されてからは栃木県北部の「那須町・生活学習サロン 森のフクロウ倶楽部」に月1回、通いはじめた。
日帰り介護サービスの運営をしている友人から「歌を聞かせてほしい」と頼まれて、ボランティアで通い始めた。独特の呼吸法やストレッチで肩こりも解消させている植野さんは「カラオケの日」と銘打って年長者の音痴を直して喜ばれた。

「参加してくださった方から『20年ぶりに生の歌を聞きました。感動しました』と言って涙してくれる姿を見ると、それだけでこちらもポロリと来てしまう。今までいろんな人に会ったこと、そしてその方々にお世話になって自分の芸として磨いてきたものが、このためにあるんじゃないかという気がしています」

気がつけば、植野さんは今年で宝塚に入り芸歴40年目の節目の年を迎えた。

「めぐる めぐるよ 時代は めぐる…」

中島みゆきの「時代」にこうあるように、人生には出会いもあれば別れもあるが、それも含めて縁だ。良縁に恵まれてきた恩恵を、初めて会う方々と一人でも多く分かち合うことが出来るのであれば、それもまた幸せだ。

心の底から慕う、中島みゆきの「時代」の一節を胸に秘め、これからも必要とされるところに出向いていくつもりだ。

1994年、神戸オリエンタル劇場でデビッド・ルボー演出『双頭の鷲』に出演。共演者には麻実れい、堤真一、団時朗、田代隆秀などがいた(写真:TPT/シアタープロジェクト・東京提供)
新型コロナウイルス感染拡大前に行われたバースデーライブ(hacopain主催)ではインド舞踊にも挑戦(写真:本人提供)
インタビュー中に見せた何気ない仕草も、舞台で演じているときと同じように見える(撮影:長濱耕樹)
撮影:長濱耕樹
  • 撮影長濵耕樹

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