清水圭 突然の引退と「西のとんねるず」になれなかったあの夏 | FRIDAYデジタル

清水圭 突然の引退と「西のとんねるず」になれなかったあの夏

細田昌志の芸能時空探偵⑪

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「とんねるず的なもの」

今年で結成42年を迎える、とんねるずが一躍スターの仲間入りをはたしたのは『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』(いずれもフジテレビ)『コラーッ!とんねるず』(日本テレビ)などのレギュラー番組が人気を博し、『オールナイトニッポン』火曜1部パーソナリティとなり、5枚目のシングル『雨の西麻布』(作詞・秋元康/作曲・見岳章)が大ヒットした1985年である。

このとき中2だった筆者は「欽ちゃんでもない」「ドリフでもない」「たけしでもない」彼らの影響をもろにかぶった世代となる。

2002年にはJリーグの優秀選手の表彰式にも登壇していた清水圭(時事フォト)

そのうねりは、意外にも上方演芸界にも及んだ。“お笑い王国”吉本興業までが「とんねるず的」な笑いを欲するようになったことは、書き留めておくべきだろう。“吉本版とんねるず”とも言うべきコンビを急造で作り上げ、大プッシュしたのだ。それが、清水圭と和泉修のコンビ「圭修」だった。

先日、清水圭にまつわるニュースが久しぶりに、インターネット上にのぼった。

《人気番組に出演していたタレントの清水圭(60)。和泉修(59)との漫才コンビ「清水圭・和泉修」を結成すると、関西で絶大な人気を誇るコンビとして活躍。(中略)近年はテレビ番組への出演が少なくなっていたが、その清水が2022年4月28日にブログを更新した。「すでに削除されたブログ記事で清水さんは『モチベーションがなくなったという誠に個人的で勝手な理由です』と記し、事実上の芸能界引退を明言していました》(SmartFLASH 5月13日配信)

事実上の引退宣言である。諸々の事情があるにしてもこの去り際は寂しい。黙って見送るには忍びなく、彼の芸能生活を筆者なりに振り返ってみたくなった。こういう機会でもない限り、清水圭について深く考えることは、おそらくはないからだ。

“吉本版とんねるず”はいかに生まれ、いかに役割を終えたのか、その顛末を書き残しておきたい。

「遅すぎるスタート」

清水圭は1961年生まれ。本名・清水圭太。少年時代から成績優秀、同志社大学在学中に、素人参加番組『ラブアタック』(関西テレビ)に出演した程度で、芸人志望だったわけではなかったという。

卒業後は下着メーカーに就職するも、1年で退職。大学の後輩である釘田修吉(のちの和泉修)を誘って吉本興業の常打ち劇場「南海ホール」(のちの心斎橋筋2丁目劇場)の手見せ(オーディション)を受けた。初舞台を踏んだ当時の芸名は「圭太・修吉」。自著『やがてテレビに出るキミたちへ!』(ぶんか社)に「芸人を目指したのは元手がいらないから」とあるが、おそらく、ある程度の自信があったのだろう。でなければ、誰かに弟子入りするか養成所(NSC)に入学するはずだからだ。

この時点で24歳。遅すぎるスタートの自覚もあったはずで「今さら弟子っ子になるのも、養成所に入るのも気乗りしない」と考えたのは、年齢的ハンデを思えば当然かもしれない。翌年、新人漫才師の登竜門「今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」に出場した圭太・修吉は「福笑い大賞」を獲得。若手芸人の有望株として一躍頭角を現した。

1986年というと「ビートたけしFRIDAY事件」を想起する人が多いだろう。実際は、前年からの勢いに乗ったとんねるずが大ブレイクをはたした年だった。従来のレギュラー番組も好調、『オールナイトニッポン』は聴取率1位を獲得し、ニッポン放送のイメージキャラクターにも選ばれた。『歌謡曲』『やぶさかでない』『寝た子も起きる子守唄』『人情岬』と出す曲すべてがヒットチャート入りし、初主演ドラマ『お坊チャマにはわかるまい』(TBS)は高視聴率を叩き出し、初主演映画『そろばんずく』(東宝)が全国公開された。「とんねるず旋風が吹き荒れていた」と言っても言い過ぎではなく、演芸の老舗である吉本興業の幹部も、そのことが気にならなかったはずがない。

ちょうど、その年に現れたのが「今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」を制した圭太・修吉だった。25歳と24歳の新人は逆に新鮮で、その上、同志社大卒という高学歴、アルマーニのジャケットを着こなし、コンパのノリのような流れるようなネタ。サラリーマン時代に営業経験のある圭太はトークも上手かった。

座視できない共通点もあった。彼らが体育会出身だったことだ。とんねるずが帝京高校野球部(石橋貴明)とサッカー部(木梨憲武)出身であったように、清水圭太は同志社大学サッカー部、釘田修吉に至っては、ボクシング部出身で、高校時代はインターハイ王者、大学入学後は国際大会「キングスカップ」日本代表をへて、ロス五輪の選抜強化選手にも選ばれた正真正銘のアマエリートだった。

長身で甘いマスクの圭太・修吉には、女性ファンも急増した。彼らより3年先輩のダウンタウンには、すでに大勢の女性ファンが群がっていたが、短期間でそれに匹敵する数の人気を得たのだ。

「おし、こいつらを“吉本版とんねるず”にして売り出そう」

吉本の幹部がそう考えただろうことは容易に想像がつく。芸名を「清水圭・和泉修」に改名。「圭修」の誕生である。

芸歴一年足らずで

ここから、彼らの快進撃が始まる。関西のメディアを一通り席巻し、1987年夏には東京進出。『オールナイトニッポン』土曜1部のパーソナリティに抜擢。“聴取率ナンバーワン”の笑福亭鶴光が11年の歴史に幕を閉じたのが1985年。ABブラザース(中山秀征・松野大介)が次の土曜パーソナリティをつとめ、1987年7月から圭修がその椅子に座った。異例の大抜擢である。秋からは冠番組『素敵!KEI‐SHU5』(関西テレビ)がスタート。『ただもんDay‐Night!』(作詞・井辺清/作曲・辻陽/ポニーキャニオン)で歌手デビューと、“吉本版とんねるず”は着々と地歩を固めつつあった。

筆者が彼らの存在を初めて知ったのも『オールナイトニッポン』だった。初めて聴いた日のことは朧気ではあるが記憶している。関西弁のテンポのよさは確かにあった。ただ「面白いか面白くないか以前の問題」と思った。明らかにとんねるずを意識していたからだ。事実、清水圭自身も「高校生の男のコにうける話をやっていきたいです」(『週刊明星』1988年3月17日付)と述べている。

火曜1部『とんねるずのオールナイトニッポン』は、もちろん、彼らのセンスもあろうが、意外に長い芸歴に裏打ちされての話術があったのは無視できない。中学時代から素人参加番組の常連だった二人は、素人時代も含むと、この時点で10年超のキャリアを持っていた。

フジテレビの石田弘や港浩一に代表される本来なら表に出ない裏方業界人の挿話や、堺正章、志村けんなどの先輩いじり、玉置浩二、高見沢俊彦、後藤次利といった親交あるミュージシャンいじり、「なんでもベスト5」を筆頭とするハガキ職人による秀逸なネタも含めて、聴取率1位の連続記録はフロックでは決してない。

それを、芸歴1年足らずの圭修が、表面的な部分だけ模倣するのは悪手だったと思う。当時「高校生の男のコ」だった筆者は、圭修のラジオトークに食中毒を起こしたような感覚に襲われたものである。

程なくして彼らは失速した。レギュラー番組は軒並み終了し、東京から撤退している。当然だろう。消費しつくされて飽きられただけのことで、むしろ、この程度のキャリアでよくやったと見るべきかもしれない。

1990年、筆者は大阪に住まいを移した。消えたと思っていた圭修は、中堅漫才師としてテレビに出て、ラジオで喋り、舞台に立っていた。“大阪版とんねるず”のイメージは過去のものとなっていた。漫才を見る機会は割とあった。「和泉修がもう少し真剣に突っ込めば、今より面白くなるのに」と思ったものだが、彼らの人気が再燃することはなかった。

それでも清水圭だけは、1993年から東京に活動の拠点を移している。前回はコンビでの東京進出だったが、このとき単独で再上陸をはたした。彼の横にはヒロミがいて息の合ったところを見せていた。とはいえ、東京弁と関西弁(それも典型的な京都弁である)は食い合わせがいいとは到底言えない。その上、ヒロミの露出の減少と歩調を合わせるかのように、清水圭の姿も徐々にではあるが、メディアで見かけなくなった。ちなみに、圭修は2001年に正式に解散している。

東京で家庭を構えた清水圭は、おそらく、芸事より楽しいことを見つけたのだと思う。一度、世田谷公園近くのサンドウィッチショップで見かけたことがあったが落ちぶれた感じはなかった。「あれ、清水圭よ、清水圭……」という主婦の声に会釈で返す余裕もあった。

美しい妻を娶り、充実した生活を送る彼が、意外にもまだ燻ぶったものを抱えていると知ったのは、3年前の「吉本芸人闇営業問題」のときである。「恫喝をした」と世間から糾弾されていた吉本の岡本昭彦社長に対し、彼は自身のブログで岡本批判を展開したのだ。

事の発端は2001年のドラマ『明日があるさ』(日本テレビ)に出演した折、事前に渡された脚本のセリフが半分に減っていたことだ。ままあることである。それに不満を述べた清水圭に対し、ドラマ担当マネージャーだった岡本昭彦は「吉本がお願いして出られるようにしてあげてるんです。会社のやり方に文句があるなら、いつ辞めてもらってもいいですよ」と言い放ったという。真偽のほどはわからないが、もし事実であるなら、言い方というものがあるだろう。

20年近く前の話を蒸し返した清水圭にも批判が殺到した。ただし、蒸し返したくなる気持ちはわからないでもない。1991年入社の岡本が異例のスピードで社長にのぼりつめたのは、吉本新喜劇の舞台担当ののち、ダウンタウンの担当マネージャーになったことと無関係ではなかったはずだからだ。もし、岡本昭彦がダウンタウンではなく圭修を担当していたら、今はどのポジションにいたことだろう。新入社員時代の岡本の姿を見知っていた清水圭も、それくらいのことは想像したに違いなく、やりきれなかったはずである。

この“騒動”ののち、清水圭の姿を見かけることはなくなった。会社も仕事を与えなかったのだろうし、彼も吉本から生活の糧を得ることを選ばなかったのかもしれない。そして、今回の引退報道である。

「一番長い夏」はあるのか

ここからは筆者の推測となる。清水圭……と言うより、京都人の性質はまことに執念深い。「公家文化」と言うらしいが、京都に縁戚を持つ筆者はそのことに存外詳しい。

つまり、清水圭はこのまま消える男とは思えない。岩倉具視ほどの凄味があるわけではないが、虎視眈々と再浮上を狙っているのではないか。少なくとも筆者はそう見ている。それが何かはわからない。わからないが、推測くらいは出来る。
清水圭と同じ京都人で、22年前に同じように、芸能界からの引退を表明した上岡龍太郎が次のコメントを残している。1986年のものである。

「お笑い芸人で、政治の世界に打って出ようという人には、きちっとしたタイプがありましてね。ひとつは、非常に権力志向の人間であること。ひとつは、非常に世話好きであること。ひとつは、偽善家であること。この三つは欠かせん資質なんですね」(『やすし・きよしの長い夏・大阪狂騒曲』近藤勝重著/講談社文庫)

読み返しながら思ったことだが、これは清水圭に当てはまるのではないか。この夏の参議院選挙において、浅草キッドの水道橋博士が、れいわ新選組からの出馬を決めたが、実は清水圭こそ、政治の世界は相応しかったのかもしれない。

では、もし清水圭が出馬するとなると、どの政党から出るのだろう。想像するだけなら楽しい。自民でも維新でもない気がする。吉本と喧嘩別れしたのなら、維新であるはずがない。かといって立憲でも、れいわでもないだろう。そこまで振り切るタイプにも見えない。公明、共産であるはずもない。

とすると、国民民主あたりに落ち着くのではないか。「権力」と「反権力」のどっち付かず。割と堅実な選挙戦を戦い、残り1議席で滑り込めば、彼の想いは満たされるかもしれないが、はたしてどうなるか。

とまれ、そうなったときのために、筆者は『清水圭の一番長い夏』を書くつもりではいる。

  • 細田昌志

    ノンフィクション作家。1971年岡山市生まれ。鳥取市育ち。サムライTVキャスターをへて放送作家に転身。テレビやラジオを担当しながら、雑誌やWEBに寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社)、『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)。近著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)が「第43回講談社・本田靖春ノンフィクション賞」を受賞。

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