あれから28年…阪神・岡田監督が阪神大震災の3日後にガレキだらけの街で本誌に語っていた悲痛な胸中 | FRIDAYデジタル

あれから28年…阪神・岡田監督が阪神大震災の3日後にガレキだらけの街で本誌に語っていた悲痛な胸中

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2004年当時の岡田彰布監督
2004年当時の岡田彰布監督

阪神大震災発生から28年を迎えた1月17日、阪神は兵庫県西宮市にある鳴尾浜球場で被災者を慰霊する黙祷を捧げた。今期から阪神の指揮を執る岡田彰布監督(65)ら首脳陣は半旗が掲げられたグラウンドに集まり、1分間の黙祷を捧げた。

当時、岡田監督はオリックスに移籍して2年目で現役生活16年目のシーズンだった。岡田監督は、

「俺はあの時は最後の時やったからな、オリックスで。もっとひどいところにおったからさ。だから俺はずっと寮に泊まっとったんかな。青濤館(せいとうかん)に。もう行かれへんかったからな。がれきで。家からは。そういうの思い出すな。もう28年か」

そうしみじみと口にした。

「家族は無事か」

被災3日後、駅前のキオスクに買い物に現れた岡田選手(『フライデースペシャル緊急増刊「関西大震災」』1995年2月7日増刊号)
被災3日後、駅前のキオスクに買い物に現れた岡田選手(『フライデースペシャル緊急増刊「関西大震災」』1995年2月7日増刊号)

震災直後に現地入りし、取材をしていた『フライデー』記者は震災から3日後の1月20日、西宮市内の駅前ロータリーで偶然、岡田選手を見かけた。目の前の駅は完全に崩壊し、トイレを利用したい人は今にも崩れ落ちそうなガレキの間を縫ってトイレを借りるような有様だった。そして、その一帯で唯一、店舗を再開したばかりの駅前のキオスクには水や食料を求めて長蛇の列ができていた。取材記者も水を買うためにその列に並んでいると、そこに岡田監督が現れたのだ。声をかけさせてもらうと、

「僕の家と家族は大丈夫でしたけど、もう皆さん大変な状況なんでね」

そう言うと、水などを買い、がれきの中を歩いて自宅へと帰っていった。その数日後、改めて電話で話を伺うと、こう語った。

「目が覚めて、最初に思ったことは家族は無事かということ。子どもも含めて家族はみな近くにおったから、大丈夫なことはすぐにわかった。夜が明けてから、近所も見て回ったけど、地盤がしっかりしているせいか、外から見ている範囲ではそんなに大きな被害を受けているようには見えなかった。ただし、電気、ガス、水道は止まってしまった」

沖縄での自主トレもキャンセルになり、トレーニングの施設も使えない。練習の再開の見込みもなく、球場に行くこともできないと嘆いた岡田選手。インタビューの最後の言葉は、

「しかたないよ。当分は」

全く先の見えない状況に言葉を詰まらせた。だが、その年、オリックスは「AMAZING BASEBALL~がんばろうKOBE〜」を掲げてオリックス初のリーグ優勝を果たし、岡田選手の引退に花を添えた。

あれから28年、阪神の監督として現場に戻ってきた岡田監督。1月5日には、球団職員120人を前に挨拶し、報道陣には、

「監督という大役を引き受けたので、とにかく1年目から全力を尽くす。野球人生の集大成かもしれないし、今まで培ったものを全力でぶつけて、選手たちと一緒になって最終的に『アレ』を勝ち取りたい」

と18年ぶりの優勝へ決意を示した。今年の阪神には是非、アレを期待したい。

落下した阪急伊丹駅の高架。警察官1名が即死したという
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17日夜遅くに激しくなった長田区の火災
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