「どす黒い水がゴーゴーと激しい勢いで」…東日本大震災「巨大津波から40代男性を救った」一瞬の判断
3月11日で、東日本大震災が発生してから12年が経った。
しかし月日は流れても、多くの人々の記憶からは決して消えることはない。東北地方を中心に震度6強の揺れが襲い、地震の規模は日本の観測史上最大となるマグニチュード9.0を記録。震災関連死を含めると、亡くなった方や行方不明者は2万人以上にのぼるのだから。
『FRIDAY』は震災発生直後から被災地に入り、生々しい被害状況を伝えてきた。だが、凄惨な出来事ばかりではない。中には九死に一生を得た人々もいる。【前編:巨大津波から生還した70代夫婦】に続き、2011年4月1日号に掲載した記事から大震災の現実をあらためて振り返りたい(内容は一部修正しています)――。
震災直後、岩手県陸前高田市の市立第一中学校には1000人ほどの被災者がいた。同市内で梱包資材の会社を経営する40代の男性Bさん(当時)も、その一人だ。以下はBさんが語った、迫りくる巨大津波の恐怖である。
「あの恐ろしい光景を、私は一生忘れません。市役所から『津波が近づいています』という放送が流れた直後、3階建ての会社のビルの2階から外を見ると、どす黒い水が激しい勢いで地面を流れて来るのが見えました。
私は慌てて屋上へ駆け上がった。屋上から周囲を見渡すと、辺り一面は材木やゴミの流れる真っ黒な水で覆われています。ゴーゴーという不気味な音とともに、水かさはどんどん増し屋上に迫ってきました」
「みんな死んでしまったのか」

あまりの凄まじい光景に、Bさんには考える余裕がなかった。
「感じたのは濁流の激しさに対する恐怖だけです。私はとっさに屋上にあるドアの上に設置された、貯水タンクに上がりました。急いでハシゴを登り、下を見てギョッとします。津波はビル全体をのみ込み、私の足下まで水面が迫っていたのです。ハシゴを登るのがあと10秒遅れていたら、私は濁流に流されていたでしょう」
周りに目を向けると、さらなる衝撃がBさんを襲った。
「360度、黒い水しか見えません。すべての建物が水没していたのです。避難所に指定されていた市民会館も、完全に水の中だった……。『みんな死んでしまったのか』と、目の前が突然暗くなる思いでした」
水位の上昇はギリギリで止まったが、水はなかなか引かない。雪も降り始め耐え難い寒さに。夜になり、ようやく水位が下がったためBさんはハシゴを下りる。
「階下へのドアを開けると、ビニール製のゴミ袋がありました。私はゴミ袋を5~6枚重ねてかぶり、破った部分から首を出してなんとか寒さを凌いだんです。何度かうとうとしましたが、サーッという水の流れる音や余震でスグに目が覚めてしまいます。
明け方、ようやくヘリコプターの音が聞こえました。私は屋上に溜まったヘドロの上に、流木で『SOS』と書いた。昼頃になり自衛隊の隊員がヘリコプターから下りてきて、私は救助されます。ヘリコプターの窓から見えたのは、水の中に点々とする壊れた建物の残骸ばかりでした」
Bさんの妻と子どもは無事だったが、両親と弟は安否不明となった。避難所での取材の最後に、Bさんは気丈にもこう話していた。
「ずっとふさぎ込んでいる訳にもいきません。生き残った者が力を合わせます。町の再起に尽力したいと思います」







PHOTO:郡山総一郎 小檜山毅彦 結束武郎 幸多潤平 川柳まさ裕 嘉納愛夏 山田宏次郎 菊池雅之 小野一光