大河ドラマ・明智光秀が、本能寺の変を起こした理由は料理だった?

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NHK大河ドラマ『麒麟がくる』公式Webサイトより
岐阜県鬼岩温泉の旅館『了山(りょうざん)』で供される「家康饗応膳」(一人前1万1000円)。『続群書類従(古文書を集めた辞典のようなもの)』に掲載されている品書きをベースにし、河田容英氏による時代考証、アドバイスのもとに作られている

家康の「もてなし」に失敗して、信長にブチ切れられた光秀

大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀にまつわるエピソードは数々ありますが、これは最も有名な逸話のひとつといってもいいでしょう。「本能寺の変」のきっかけになったとされる出来事です。

1582(天正10)年3月、織田信長は長年の宿敵だった武田家を滅ぼします。信長は武田攻めに尽力した同盟者・徳川家康に駿河国(現在の静岡県)を与え、家康はその御礼をしに安土にやってくることになりました。5月のことです。このとき家康のもてなし役=「馳走役(ちそうやく)」を命じられたのが、明智光秀でした。5月15日からの3日間、家康を迎えた安土城では贅を尽くした饗応が繰り広げられます。

ところが、この宴席で光秀が出した料理の魚が腐っていたため、信長が怒り狂い、2日間だけで光秀の馳走役を解任して、お前は秀吉の中国攻めの援軍にさっさと行ってこい! と命じたというエピソードがあるのです。

この半月後、6月2日未明に光秀は突如、京都の本能寺にいた信長を襲いました。

満座の中で恥をかかされたと思ったのか、あるいは信長軍団のなかで、もはや出世の見込みがなくなったと思ったのか……いずれにせよ、このエピソードどおりなら、「信長怒る→解任されて亀山に戻り、同僚の秀吉の中国攻めを手伝うために出撃準備→中国地方でなくて方向を変えて本能寺襲撃」ということになるわけで、「饗応失敗」は本能寺の変の理由としては、いかにももっともらしく聞こえますよね。

本当にそんなことがあったんでしょうか? それはどんな料理だったんでしょうか?

大河ドラマ『麒麟がくる』では、この「家康饗応膳」のエピソードはどのように描かれるのか?/写真 アフロ

料理に通じていた光秀

ここでちょっと寄り道して、現代の私たちが疑問に思うことを調べてみました。ひとつめが、「光秀みたいな偉い人が、家康のもてなし役なんてするものなの?」です。

光秀は丹波一国を信長からもらい、織田軍の畿内方面司令官みたいな地位についています。現代社会でいうと、取締役本部長が、社長からグループ会社の社長の「接待役」を命じられた感じ? 思わずムッとしちゃいそうです。あるいは部下に丸投げするかも。

「馳走役というのは、身分の低い者がする役割ではないんです」

この疑問には学習院大学の望田朋史氏が、こう答えてくれました。学界でも珍しい「馳走役」を専門とする研究者で、「公儀馳走役の研究」で2019年徳川奨励賞を受賞しています。

「現代の人が一番分かりやすい例を挙げると、赤穂事件(いわゆる『忠臣蔵』)のときの浅野内匠頭ですね。あれは大名に命じられた接待の場で、殿様が暴走してしまった事件です。馳走というのは、大名や勅使など高位の者同士の接遇がなされる場で、そこでは殿様本人が藩を代表して一人ですべて対応しなければいけません。ですから饗応の場合、献立も殿様本人が事前にチェックし、時には指示をしていたはずです。

部下の者は本番の場に出られませんから、殿様が無事に馳走役を務められるようにと、各藩とも舞台裏であれこれ奔走します。そうした裏方の書状がたくさん残っていまして、なかには江戸から国許へ『殿は立派に馳走を終えられました!』と急報した書状なども残っています」(望田氏)

なるほど。部下がお膳立てをして、偉い人はそこに座っているだけ、というわけではないんですね。

疑問のふたつめは、「なぜ、選ばれたのが光秀だったか?」ということです。

「明智光秀公は、じつは“庖丁道”の家の出だった、という話があるんです」

こう話すのは、2019年秋から「天正十年五月 徳川家康饗応膳」の料理再現を始めた日本旅館『了山』の料理長、安藤和範氏です。再現のために時代考証の先生について一から勉強し、おかげでその再現料理は、『麒麟がくる』時代考証の小和田哲男先生からも合格点をもらったそう。

「日本料理には、今でも四条流や大草流といった流派があって、これを“庖丁道”といいます。戦国時代には毒殺が横行したので、足利将軍家では料理を担当するのは、特に信頼された譜代の家臣だったそうです。そうした武家流庖丁道の家柄のひとつに進士家という家があり、光秀公はそこから明智家に養子にきたという言い伝えが残っているんですよ」

なんでも、当時の武士のたしなみのひとつが「包丁」だったんだとか。明智光秀の盟友と言われた教養人・細川藤孝も包丁の達人で、包丁と真魚箸だけを使って、鯉の身に触ることなくさばくことができたという逸話が残っています。

「饗応献立のなかには、光秀公が考案したとされる奉書紙の飾り皿も出てきます。もてなし役を決めるにあたって“料理に通じた光秀なら適任だ”と信長公が思ったんじゃないでしょうか」(安藤氏)

光秀が考案したとされる奉書紙の飾り皿「甲立(こうたて)」を手にする安藤料理長

一方、前出の望田氏は、こう推測しています。

「“(ご)馳走”という言葉は、現在では専ら豪華な食事によるもてなしを意味しますが、近代社会以前には、宿所の準備や警固等に奔走するという広い意味でも使われていました。警固は裏を返せば監視にもなります。光秀は信長から、このような広義の家康担当をつとめるように命じられ、その役目には饗応膳の準備も含まれていた、と考えると分かりやすいと思います」

家康の監視! なるほど、それは並の大名でつとまるわけがありません。もちろん、ここで立派に務めあげて出世競争のプラスにもなるようにと、光秀は大いに気合をいれたようです。

400年以上も前の料理を再現し、実食!

さて、いよいよ、料理の話です。

「光秀公の献立を見てみると、接遇のために、当時の交通事情の中で、できる限り遠いところまで足を運んで食材を集めよ、と命じたことがわかります」(安藤氏)

秋篠宮家の眞子内親王も宿泊したことがある『了山』は、岐阜県可児郡と瑞浪市の境、鬼岩温泉にあります。可児市には明智光秀が生まれ育ったとされる明智城もありますから、このあたりには「光秀の故郷の味」が残っているともいえるでしょう。

眞子内親王が宿泊した部屋からは、鬼岩温泉の山深い風景が一望に。近くには織田信長配下だった大名茶人・古田織部が創始したとされる織部焼の里もある

「私たちのところは、東濃と中濃の境界ですが、味付けのベースはやはり赤味噌で、辛口が基本です。赤味噌にはかつおだしがぴったりですので、だしとなるかつおぶしは東海地方から取り寄せていたのではないでしょうか。

家康公の饗応膳の食材をどれだけ遠くから取り寄せていたかというと、海産物の品目には、ホヤがあります。これは三陸の名産ですね。うるかなどは北陸からの取り寄せでしょう。現在では入手が難しい品目もあります。鶴や鴫(しぎ)ですね。

また、一の膳で鯛の焼き物が、二の膳で鯛汁が出ます。家康公は鯛が好物だったといわれていますが、これは海に面していた遠江・駿河(ともに静岡県)の領主だった家康公らしい好みで、たぶん光秀公はそうした好みも事前に耳にしていて、あえて何度も鯛を食膳に乗せたのではないかと思います」

「家康饗応膳」の器に載せられる鮎の塩焼。当時の献立にあって、現代でも好まれている数少ない品目のひとつで、地元・岐阜の天然鮎が使われている

安藤氏によれば、献立のとおりにすべて再現したとすると、現代の私たちの舌では相当に塩辛く感じるはずだとか。食物保存のために塩が多用されていたことも一因のようです。また、当時は醤油が普及しておらず、刺身はわさび酢、生姜酢、蓼酢(たです)など、「酢」で食べられていたそう。

『了山』で供される「饗応膳」では、鶴や鴫はかしわで代用、また品数を抑えるとともに、現代人にはあまり好まれない鯉は汁にして食べやすくしています。饗応膳は4日前までの要予約(毎週、水、木、金の3日間のみ)。一度に対応できるのは4名から最大20名までと人数も限られています。

「じつは、この献立は、たとえ一部の再現といえども、食材を集めるのがものすごく大変なんです。他に転用することがほとんどできませんし、奉書飾りの用意から何まで、手間もコストも猛烈にかかる。そのため申し訳ありませんが、条件つきでの提供とさせていただいているんです。実際の家康公の饗応膳となったら、どれぐらい大変だったか……、料理人としてはため息が出ますね」(安藤氏)

冷蔵庫もクーラーボックスもない時代。「食材輸送」は一番の贅沢でした。家康は静岡のものを、信長は愛知や岐阜のものを食べていたわけで、地元で採れないものを食膳に載せることに光秀が注力したのも当然かもしれません。

が、それが結果的にあだになったのか……。「家康饗応膳」の豪華さを前にすると、歴史の謎をあてどなく考えてしまうことでしょう。

了山(りょうざん)/TEL 0574-67-0288 http://www.ryouzan.jp/

  • 取材・文・撮影花房麗子

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