実弟C-C-Bプロデューサー渡辺忠孝氏に聞く「素顔の筒美京平」 | FRIDAYデジタル

実弟C-C-Bプロデューサー渡辺忠孝氏に聞く「素顔の筒美京平」

J-POPの神様・筒美京平の世界。 Vol.5

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あまり語られなかった子ども時代の思い出と、兄弟でヒットを連発させたC-C-Bの裏話

筒美京平の実弟でC-C-Bプロデューサーの渡辺忠孝さんに初めてお会いしたのは、ちょうどC-C-Bの解散が決まった1989年ぐらいでした。次にプロデュースしたいバンドを探す中で、当時、僕が在籍していたザ・ファントムギフトが候補にあがり、それ以来30年近く、お付き合いさせていただいています。

10月に逝去された筒美京平さんを偲び、幼少期のご兄弟のエピソードやC-C-Bについて、お話を伺いました。

「テネシーワルツ」と「東京音頭」

子どもの頃に住んでいたのは、現在のホテルオークラのすぐ近くという東京のど真ん中。その頃はまだ創業者の大倉喜七郎さんのお屋敷で、お庭に入っては兄弟で遊んでいたそうです。京平さんがよくオークラを使ったのは、忠孝さん曰く「あれは帰巣本能」とのこと(笑)。

ご両親は音楽や映画が大好きで、進駐軍にいた知り合いがレコードを持ってきてくれることも。「テネシーワルツ」をもらったときは、兄弟で取り合いになったのだとか。

「夏になると近所でお祭りがあるじゃない。すると〝東京音頭〟が風に流れて聴こえてくるんだよね。兄弟でよくFEN(現AFN米軍放送)のラジオも聴いたね。当時、洋楽はほとんど、ここでしか聴けなかったから。そういう和洋折衷がDNAに入ってるんですよ」(渡辺忠孝さん 以下同)

ミッション系の幼稚園、小学校で賛美歌を歌ったことも、洋楽に親しむきっかけになったといいます。

筒美京平のオリジナル第一号!? 幻の「さんぽ会の歌」

「小学校の頃に〝さんぽ会〟っていうのがあって、5〜6人の集まりなんだけど、兄貴は〝さんぽ会の歌〟っていうのを作ったりしていた。童謡みたいなものだったね」

これは初作曲なのでは!? 神童モーツァルトも5歳で初めて曲を作ったといいますが、どんな曲だったのでしょうか。ぜひ聴いてみたいですね。

京平さんの誕生日にカワイのアップライトを買ってもらい、ピアノを習っていたふたり。京平さんはピアノが本当に上手で、忠孝さんは子供心に「こいつにはかなわねえなァ」と思っていたそうです。

「ある日練習しようとしたら蓋に鍵がかかっていて、兄貴が “これは僕のピアノだから忠孝は弾いちゃダメだ”と言うわけ(笑)。それぐらいピアノが好きだった」

子ども時代の京平さんの夢は、ピアニストになることでした。

「中学生の頃、バレーボールの授業で “僕は将来ピアニストになるのでバレーはできません”と言って、先生と喧嘩になったみたい。ピアノ・トリオが大好きで、オスカー・ピーターソンやハンプトン・ホーズ、ナット・キング・コールをよく耳コピしていたよ。成績も優秀で、いつも学年でトップだった」

あれだけのヒットメーカーでありながら、実は歌謡曲が嫌いだった!?

ピアノが天才的に上手な京平さんでしたが、手が小さかったのでプロになるのは断念。大学卒業後、レコード会社に就職するのですが…。

「ポリドールの試験で “洋楽かクラシックなら入ります。邦楽だったら入りません”って断言した。それでしばらくしたらサ、“なにが『ブルー・ライト・ヨコハマ』だよ”って(笑)。

でも作曲家になるのはすごく悩んでいた。橋本淳さんとすぎやまこういちさんに誘われて誘われて…。アレンジも大好きだったから、どこかで折り合いをつけたのかな」

忠孝さんはジャズが大好きな青年で、ジャズ・バンドでドラムを担当。同じくジャズが好きだった京平さんのピアノともセッションしたらしいですよ。うらやましいです。

そんなある日のこと…。

「兄貴から“スパイダースのレコーディングあるから見にくる?”と言われ、その現場でディレクターが“いきま〜す。テイクワン!”とか言ってるわけ。こんな楽しそうな仕事があるのかと思ってさ、翌年にフィリップス(フォノグラム)に入った」

忠孝さんがディレクターになるきっかけを作ったのは、京平さんだったんですね。

渡辺=筒美のご兄弟での初仕事は、ザ・ジャガーズ「星空のふたり」(1968年)で、忠孝さんはディレクターとして、京平さんにアレンジのアイデアをいろいろと出したそうです。

C-C-Bメンバー全員に「がんばらなきゃ!」と思わせたのは笠浩二

「Romanticが止まらない」(1985年1月25日発売)

忠孝さんの長いキャリアで特に成功を納めたのが’80年代のC-C-Bと言えるでしょう。笠浩二、関口誠人、渡辺英樹他2名のメンバーで、和製ビーチボーイズことココナッツボーイズとして1983年にデビュー。翌年、メンバーチェンジですでにプロ・ミュージシャンとして活動していた田口智治とオーディションで米川英之が加入し、黄金の5人が揃います。C-C-Bと改名したのは忠孝さん。3枚目のRomanticが止まらない」以降、筒美京平=松本隆で次々とヒットを飛ばしていきます。

転機が訪れたのはセカンドシングルのレコーディング時。スタジオミュージシャンの林立夫さんが持参した最先端のシモンズ(6角形のパッドが有名なイギリスの電子ドラム)に魅せられた笠君が、きっかけを作りました。

「次の週のレコーディングに、笠君がニッコニコしてさ、持ってくるんだよ、シモンズを。“ええーっ、おまえこれいくら?”“100万です”って胸張って。お金がないので神田商会(輸入楽器等の総合商社)の社長に 1万円で100回払い、しかも払える時にしてくださいと頼みこんだら承知してくれたって言うんだよ。

そういうやる気が響いたよね。メンバーを本気にさせたのは、僕は笠君だと思う。いちばん年下で、小僧みたいでさ。それで3ヵ月に1回、こっそり“忠孝さん、1万円貸してくださいよ”ってくるんだ。可愛いんだよ、笠君は」

この笠君の100回払いは、C-C-Bメンバーやスタッフの間で〝青春の100回払い〟と呼ばれていたそうです(笑)。

笠、渡辺、関口のベストな音域を最大限に活かした曲づくり

ここでブレイクするきっかけになった「Romanticが止まらない」のお話を。

「一度は他のグループに決まっていた『毎度お騒がせします』(TBS系列のテレビドラマ)のタイアップ曲が諸事情でC-C-Bに。それで京平さんに頼んで書いてもらったの」

京平さんは常に、歌う人の最高の音域をトップに持ってくるように作曲します。C-C-Bは笠君のハイトーンに関口君の低い声、渡辺君の安定感のある声が入ってすごく面白い!

「スケール感が出るでしょう? 〝Romantic〜〟の時に関口君が“僕、何年もこのバンドやってるのに〝Don’t stop〟だけ?”って言ったのを覚えてる。そのあたりは難しかったですよ。こんなに声にバリエーションがあって、いかようにも組み立てられるバンドってそうはないから」

ビジュアルのイメージも強烈でした。メンバーごとに髪の色を変えたのは、当時大人気だったデュランデュランを意識したとのこと。

「米川君なんか染めたくなくて逃げ回っていたよ。それで笑ったのは松本(隆)さん。初めて打ち合わせした日の夜に電話があって、“僕やっぱりさァ、髪の毛ピンクとかブルーとかダメだわ。やりたくない”“ダメでしょ、もうやるって約束したでしょ”と説得しました(笑)

「スクール・ガール」(1985年4月25日発売)

次のシングル「スクール・ガール」は詞も曲もオールドスクール風で、当時の英ロックを意識したアレンジがとてもステキな曲です。しかもスゴいのは大ヒット曲の「Romanticが〜」と違うタイプをあえて持ってきたこと。忠孝さんのセンスが光ります。

その後も松本=筒美の怒濤の名曲が続きますが、詞先、曲先、どちらだったんでしょうか。

「松本さんとは同時に交換。まず松本さんが詞をひとつ書く、京平さんもひとつ曲を書く、それを交換してそれぞれに詞と曲をつければ2曲でAB面になるでしょ? 松本さんなら京平さんと気心が知れてるからそういうことができる」

数々の〝歌謡曲初〟に挑戦したC-C-Bはもっと評価されるべき!

(左)「ないものねだりのI Want You(1986年12月10日発売)」、(右)「ないものねだりのI Want You-ゼイ肉-Mix (1987年2月1日発売)」

リミックス12インチシングルを出したり、サンプリングをしたのは、歌謡曲ではC-C-Bが最初のはず。1986年、9枚目のシングル「ないものねだりのI Want You」で、歌謡曲に初めてラップを取り入れたのもC-C-Bです。彼らが船山基紀〜大谷和夫と共に作り上げたデジタル・ロックサウンドはとってもレベルが高く、個々の演奏能力も優れていて、もっと評価されるべきバンドでした。

「僕が京平さんに“ラップ入れよう”って言ったの。そしたら8小節のパターンをだーっとファックスで送ってきて〝適当に組み立てて並べてください〟って書いてあって(笑)。しょうがないから僕がやった。でもちゃんとメロディーはあるし、笠君の〝♪女は強く〜〟のサビもあるからね。英樹君のラップがかっこいいんだよ」

曲を聴いていると、ご兄弟で楽しんで作っていった雰囲気が伝わってきます。

「細かいことは言わないけど“ここにラップの音源持ってきて、ディープにならないように。サビは笠でしまるように”とか。ディレクターが“こういう理由であなたにお願いするんです”と説明し、“こんな感じで”と提案しないと、京平さんやってくれないの」

筒美京平を支えたもの。それは「この仕事が好きだ」という思い

忠孝さんが手がけたアーティストは歌謡曲、ニューミュージックからポップス〜ロックととても音楽性の幅が広くて、そこが京平さんにとって信頼できるところでした。おふたりは兄弟以上、盟友の仲だったと思われます。

「曲の感想を求められることはあった。時には “何かいいネタない?”と聞いてくることも。とにかく真面目だったね。特に新人の若い子にはシングルヒットをっていう意識が強いんですよ。それが作曲家の役目だし、それで若い人の人生が変わっちゃうと言うんだよ」

長い音楽人生、「筒美京平は一人ではない」と都市伝説が生まれるほど多忙な日々でした。

京平さんがたくさん曲を書いても苦にならなかったのは、この仕事が本当に好きだったから。お互いに好きなことしかやらなかったのは幸せ。最高に楽しい人生だったと思う

最後に、忠孝さんは小さな頃から喧嘩をした記憶がないというほど仲のよかった京平さんのことを、プライベートでは“お兄ちゃん”、仕事上では“京平さんと呼んでいたそうです。ほほえましいですね。

なんか今回は筒美京平の音楽論というよりも、〝人間、筒美京平〟という感じになってしまいましたが、個人的には京平さんの人柄がわかればわかるほど、より京平さんを身近に感じ、さらに〝京平愛〟が強くなりました。

渡辺忠孝さん、ありがとうございました。

コロナ禍らしく、あえてビニール越しで撮影することに
『愛の力コブ』(1986年12月15日発売)というタイトルは忠孝さんによるもの。作詞家の売野雅勇さんに「最高〜!」と誉められたそうです

 

渡辺忠孝(わたなべ・ただたか) 1943年(昭和18年)7月18日生まれ。音楽プロデューサー、ディレクター。1940年生まれの筒美京平とは3歳違いのふたり兄弟。東京農業大学農芸化学科卒業後、日本ビクターに入社。その後、日本フォノグラム(日本ビクターフィリップス事業部が独立した新会社)、日本コロムビアでサブ・レーベル・プロペラの立ち上げに参画、日本ポリドール(現ユニバーサルミュージック)、ワーナー・ミュージック・ジャパンを経て現在に至る。担当した主なアーティストは、ザ・スパイダース、森山良子、ブレッド&バター、野口五郎、西田佐知子、C-C-B、KAN、フィッシュマンズ、山崎まさよし、クラムボン、スチャダラパー、コブクロなど。

Vol.4「『今は悲しすぎて聴けない』心にしみる筒美京平メロディー10曲」はコチラ

  • 文・ロゴデザインサリー久保田

    アートディレクター、グラフィックデザイナー、ミュージシャン。ミュージシャンとしてはザ・ファントムギフト(ミディ)、les 5-4-3-2-1(コロムビア)、SOLEIL(ビクター)でデビュー。2020年11月、12月に自身の還暦を記念して7インチ・シングルをVIVID SOUNDより連続リリース! 参加アーティストは平山みき、RYUTist、野宮真貴、MANON。
    また、自身が監修・選曲したコンピレーションアルバム『MAGICAL CONNECTION 2020』と『SOLEIL in STEREO 2』もビクターから発売中。

  • 構成井出千昌

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