1984年8月19日 天才やすしの「転落」が始まったあの日 | FRIDAYデジタル

1984年8月19日 天才やすしの「転落」が始まったあの日

細田昌志の芸能時空探偵⑦

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時々に謝る姿もさまになっていた(時事フォト)

人生において得難い邂逅がある。しかし、他人にとっては、災厄を招くものだったりもする。それがテレビ番組ならどうか。視聴者にとって単なる娯楽にすぎないものでも、出演者にとっては身を滅ぼす契機になりうることは、長いテレビの歴史において、なくはないのかもしれない。

1984年8月19日は、不世出の天才漫才師、横山やすしが、生放送のテレビ番組『久米宏のTVスクランブル』の出演をすっぽかした日である。

抜きんでた存在感

まず、この番組がいかなるものだったか、簡単に説明すべきかもしれない。

『久米宏のTVスクランブル』は1982年10月10日放送開始。生放送の情報番組である。出演は久米宏、横山やすし、福富達(ニュース解説者)、渡辺みなみ(アシスタント)。後方に30人ほどの若い女性が居並ぶ。渡辺みなみはアシスタントだが、進行はあくまでも久米宏に委ねられた。

内容は、その時々のニュース、流行、文化、社会問題を、それぞれのコーナーにあてはめながらVTRにまとめ、スタジオで久米宏と横山やすしが自由に感想を言い合う。時には口論になることもあった。──文字に起こすと斬新さが伝わらないのがもどかしいのだが、何より重要なのは、久米とやすしのやりとりが刺激的だったことと、この手の番組が当時は皆無だったことである。すなわち、VTRを中心に構成する、現在の情報バラエティ番組の祖形と言えるものだったかもしれない。

展開するコーナーも、それまでになく先鋭的なものだった。

街中で見かけた人間の行動をバードウォッチングの要領で観察する「人間ウォッチング」。「入学式、卒業式、入社式、結婚式、葬式……一生にかかる儀式の費用」「世界すべての国で二泊した場合にかかる費用」など世のあらゆる事象を金額に換算した「ザッツ・マネー」。「政治家の秘書に訊く最も苦労していること」「ミスコン優勝者に訊く美人で損したこと」「新潟県民に訊く田中角栄の功績」などをランキングにまとめた「なんでもベスト5」。日本中の美しい妻を紹介して「夫とのなれそめ」「日常生活」「得意料理」を紹介しながら、最後に横山やすしが〇×判定する「日本全国美人妻」……。

そしてラストは日本各地の「空撮」とともにエンディングを迎える。Googlemapの定着を三十年早く予期しているようにも映る。

また、国政選挙の開票日には『選挙スクランブル』という開票特番が組まれた。他局が月並みに当確ランプを打つ中「落選確実」を打ち、「正しい万歳のやり方」「落選した場合の正しいダルマの片付け方」などを開票の合間に紹介した。昨今著しい選挙速報のバラエティ化をいち早く実現させてもいる。

番組開始当時、筆者は小学校5年生。番組構成の面白さもあるが、久米とやすしのスリリングなやりとりに夢中になった。通常のニュース番組では見られない独特な検証も子供ながら何度も頷かされた。

今も記憶にあるのが、当時の日本社会党(現・社民党)の石橋政嗣委員長がゲストに現れたときである。「自衛隊再軍備」を主張する「愛国者」のやすしと、「自衛隊違憲」「非武装中立」を唱える野党第一党党首の論争は、子供ながらにハラハラしつつ、最後は笑顔で終わる締めくくりも絶妙だった。久米宏の回しの巧さもあったのだろう。

しかし、何はともあれ、番組における横山やすしの存在感は抜きん出ていた。何しろ“自由”なのだ。作家の小林信彦は自著『天才伝説 横山やすし』(文藝春秋)で、顔を腫らし歯が欠けたやすしの顔を、この番組で目撃したと書いている。「小豆島レースでやってしもた」と言うのを見て「蒼ざめた」とある。

というのも、この時期やすしは、小林の小説『唐獅子牡丹株式会社』の映画版の撮影中だった。進行やキャスティングにも携わっていた小林信彦が驚くのは当然で《撮影の途中で顔が変られたら、たまらない。やすしは、世間でいうのとは別な意味の“突飛”で危険な人物だと痛感した》には実感がこもっている。

それでも、小学生の筆者にとっては痛快なことこの上なかった。問題発言も問題行動も「面白いんだから、どんどんやってくれ」と思った。やすしの放埓さが際立ったのは、相方がいなかったことも無視できまい。

当時、西川きよしとの“やすきよ”で9本ものレギュラー番組を抱えていたが、やすし単体でのブッキングに応じたのは、吉本興業、というより、当時の吉本興業東京支社長である木村政雄氏の思惑も大きかったはずだ。漫才ブーム以後の個々をバラ売りする戦略が背景にあった。そしてそれは、西川きよしの心情にも、いささか影を落としたのではあるまいか。

しかし、放言で済んでいたものが、笑えない暴言に変質していったのは、番組開始2年目を迎えた1984年には如実になっていた。この年、中学生になった筆者にもはっきり見て取れた。以前よりもすぐ大声を出すようになったし「うすらばか、死んでまえ」と怒鳴り散らしもした。

7月15日の生放送で国会議員に対し「お前ら何を考えとんねん。なめとんか、あほんだら」と発言したことが問題視され、巨人戦のナイター中継とロス五輪中継で2週休みとなった後の8月5日の生放送で「×」の書かれたマスクをはめて現れた。ただ一言「黙秘権や」と言うだけで、番組中ほとんど喋らなかった。

番組をすっぽかしたのは、このときのオンエアが伏線となったのは、間違いないと見ていい。

8月19日前夜から当日までの横山やすしの行動を、日刊スポーツ(1984年8月20日付)の報道を参考に追ってみることにする。

前夜、友人と呑み歩いた横山やすしは、未明になっても帰宅せず、朝になっても連絡がつかなかった。啓子夫人が方々に電話をしても捕まらない。一体どうしたものか。

19日午後4時半、知人の一人から「やすしさんはここにいます。具合が悪くて横になっています」と自宅に電話が入った。それを受けて啓子夫人は吉本興業東京支社に「主人は具合が悪くて、今日は行かれそうにありません」と電話を入れる。受け取った東京支社の社員……というか、おそらく支社長である木村政雄氏自身が日本テレビの原薫太郎プロデューサーに連絡を入れ、「横山やすしは体調が悪く、今週は出演できません」と、当日欠席を伝える。

本番2時間前になってこんな連絡を受け取る局Pも大変だと同情するが、ここから原プロデューサーは、イーデス・ハンソンに電話を入れて代打出演をオファー。懇意にしていたのだろう。彼女が快諾したことで、どうにかこの日のオンエアを乗り切った。原プロデューサーのコメントがある。

「事務所も怠慢だし、ペナルティもあってしかるべき。でも番組を下ろすつもりはない」

表向きは「過労と肝臓病によるダウン」と発表している。

しかし、これ以降、明らかにやすしの番組対するモチベーションが下がっていったのは、中学生でも読み取れた。酔って現れるようになったのもこの時期以降なら、無気力なコメントを繰り返すようになったのもこの頃からだった。最初は面白かったが、次第に「またか」と、つまらなく感じるようになった。田舎の中学生の感性とはいえ馬鹿にできない。横山やすしに何があったのだろう?

この時期の横山やすしにとって、ある意味、西川きよし以上のパートナーだった木村政雄氏の回想がある。

《次第に横山さんは外連(けれん:歌舞伎などで、見た目本位の奇抜な演出・演技)に走るようになっていきました。(中略)それはそれで生放送らしく、面白かったのですが、私には「テレビという場で、漫才の天才が、司会の名手に後れを取った焦燥感の発露」のように思えました。(中略)この頃から次第に、横山さんは酒の匂いを残したまま番組に出演するようになりました》(ポータルサイト「木村政雄の私的ヒストリー」第77話)

また、小林信彦は前記の著書で《横山やすしは「久米宏のTVスクランブル」で新しい分野に挑戦していた。とはいえ、ベテラン久米宏の掌の上で踊っている印象は否めない》と書いている。

つまり、これまでは得意の弁舌で相手を打ち負かしてきた横山やすしも、久米宏というトークの達人に対してはそうもいかなかったということだ。傍から見てまったくそう感じなかったが、本人としては忸怩たるものがあったのだろう。天才であればなおのこと苛立ったに違いない。

ここから転落は早かった。酔ってスタジオに現れ、悪態をつくだけついて本番中にいなくなったり、本番中にトイレに立ったりと奇行を繰り返した。そして11月11日、「渋滞にはまって、東京行きの飛行機に乗られへんかったんや」という理由で番組を無断ですっぽかすと、日本テレビも今度は許さず、11月19日、正式に番組降板が決まった。

これ以降、番組には週替わりゲストが現れたが、求心力が失われたのは中学生にもはっきりと判った。1985年3月31日、番組は最終回を迎えた。「やっさんのせいだ」と筆者は臍を噛んだ。余談になるが、次に始まった番組が『天才たけしの元気が出るテレビ』である。

一見、横山やすしの降板が要因に思えたこの番組終了だが、実際そのことは無関係だったらしい。というのも、この年の10月からテレビ朝日で久米宏をキャスターとした『ニュース・ステーション』が始まっている。局こそ違うが、制作は同じオフィス・トゥ・ワンだった。『ニュース・ステーション』の構想は1984年の夏にはすでに業界内では周知されていた。すなわち、『TVスクランブル』の3月終了は規定路線だったのだ。

要するに、『久米宏のTVスクランブル』は『ニュース・ステーション』を始めるにあたって前段のようなものだったのかもしれない。久米宏にとってはその程度でしかなかった番組だが、横山やすしにとっては、この降板劇が皮肉にも致命傷となってしまうのである。

これ以降の横山やすしの失速は顕著である。1985年4月からTBSテレビで『ハロー!ミッドナイト』という深夜の生番組の司会にキャスティングされている。新番組ではない。当初の司会は松山千春だったが、「言葉遣いが悪い」と批判が集中して松山千春が降板。その後任として、さらに言葉遣いの悪い横山やすしがキャスティングされたのだ。当然、評判が良いわけはなく、番組も2クールで終了した。《やすしにとっては充分過ぎるイメージダウン》と小林信彦は書く。

「酒のやすし」「暴言のやすし」という『TVスクランブル』で現れたマイナスイメージが固定化されたのも、この頃からである。というのも、実はそれまでは、仕事中に酔態を見せることはなかった。むしろ粛々とこなしていた。『プロポーズ大作戦』などテキパキと動いていたことを筆者は憶えている。相方西川きよしの存在がいかに大きかったかということだ。

その西川きよしが、翌86年、突如夏の参議院選挙に大阪選挙区から出馬した。「やっさんから逃げるつもりだ」と中学生の筆者は思った。もちろん、理由はそれだけではなかったと思うが、そう感じた人は多かったのではないか。西川きよしは100万票を超える最多得票でトップ当選。やすきよは実質的に休業状態となった。

それ以降、事件と事故をこれでもかと繰り返した横山やすしは、1989年4月17日、酒気帯び運転でバイクとの人身事故を起こし、吉本興業から契約を解除された。「芸能界追放」である。

その後、Vシネマに出演したり、92年の夏の参議院選挙に「風の会」より全国比例で立候補するなどしたが、浮上することはなかった。落選直後の92年8月には、深夜に何者かに殴打され重傷を負うなどトラブルが続いた。93年には大村崑の音頭で「横山やすしを励ます会」が開かれたが、上方芸人で姿を見せたのは京唄子くらいで、大半が競艇関係者だったと聞く。そして、1996年1月21日、51歳の若さで他界した。

転落の理由を『久米宏のTVスクランブル』に見るのは、まったく短絡的なことである。人生に失敗と成功は付き物だからだ。むしろ、当人の意識はともかくとして、番組的に彼の存在はかけがえのないものだったし、久米宏との丁々発止は新たな魅力を振りまいていた。そのことは熱心に視聴していた筆者が保証する。

しかし、躓いた一因となったことだけは、ある面において事実かもしれない。重要なのは、躓いたとき、いかに再び歩き始めるかではないか。

執筆:細田昌志 ノンフィクション作家。1971年岡山市生まれ。鳥取市育ち。サムライTVキャスターをへて放送作家に転身。テレビやラジオを担当しながら、雑誌やWEBに寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社)、『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)。近著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)が「第43回講談社・本田靖春ノンフィクション賞」を受賞。

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