1990年10月『夜ヒット』終了までの「栄光とゴタゴタ」 | FRIDAYデジタル

1990年10月『夜ヒット』終了までの「栄光とゴタゴタ」

細田昌志の芸能時空探偵⑧

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1973年9月、『夜ヒット』降板についての記者会見を行った前田武彦氏(写真:共同フォト)

「やらないで後悔するより、やって反省した方がいい」とは自己啓発本で散見される常套句である。スポーツ系の人が口にする印象もある。ただ、間違いなく言えることは「やって後悔することも確実にある」ことだ。例えば、長寿番組の引き際がそうである。座組やタイトルを変えて延命した例は滅多にない。にもかかわらず、人は同じあやまちを繰り返す。「やって後悔する」ことは多い。

「マエタケだから」で許されたはずが

今から31年前の1990年10月3日は、フジテレビの人気音楽番組『夜のヒットスタジオ』が22年の長い歴史に幕を下ろした日である。

『夜のヒットスタジオ』は1968年11月4日、生放送の音楽バラエティ番組として産声を上げた。当初の司会は前田武彦と芳村真理。“マエタケ”と呼ばれたこの時代の前田武彦は、放送作家を出発点として、作詞、コラム、俳優、司会、ラジオパーソナリティと、永六輔、青島幸男、大橋巨泉と並んで、マルチタレントのはしりとも言うべき存在だった。

人気アニメ『エイトマン』の主題歌を作詞したのもマエタケならば、台本に依らないフリートーク形式の司会手法を始めたのもマエタケである。立川談志の指名で『笑点』第二代司会者にもなっている。“毒舌司会”の嚆矢でもあり、歯に衣着せぬコメントも「マエタケだから」で許された。

毒舌が高じてゲストの歌手に好き勝手に渾名をつけるのは『夜ヒット』の売りとなっていた。主なものは「三日前のハンバーグ」(菅原洋一)「北京原人」(バーブ佐竹)「海坊主」(都はるみ)「ピノキオ」(布施明)「ドンドン鯨」(放送作家の塚田茂)。うつみ宮土理の「ケロンパ」もマエタケの命名である。有吉弘行の祖形と言うべき存在かもしれない。

ただし、筆者にとって残念なのは、これらはすべて生まれる前の話であり、マエタケがテレビの寵児だった時代を筆者はまったく知らない。

「発言で干された」は正確ではなかった

敵無しと思われたマエタケが躓いたのは、意外にも政治にかかわることだった。1973年6月16日、参議院議員選挙大阪選挙区補選の最終日において、日本共産党公認の医師・沓脱タケ子の応援演説に出向いている。作家の松本清張と作曲家のいずみたくも一緒だった。海軍出身のマエタケは、予科練時代の不条理な暴力に辟易してか、思想は「反戦」「反権力」。当時の共産党委員長の宮本顕治とは『毎日新聞』(1969年12月12日付)と、共産党の機関紙『前衛』(1970年2月号)の二度にわたって対談している。応援演説はその辺の関係性もあったのだろう。

そこでマエタケは「もし、沓脱さんが当選したら、月曜の生放送でバンザイを言います」と約束してしまう。おそらくリップサービスだったはずだ。というのも、選挙は自民党新人、社会党元職、民社党新人と一議席を争う大混戦。「共産党が勝つはずがないから、その場を盛り上げよう」と思ったのは想像に難くない。それが意に反して、沓脱タケ子は自民党新人に1万票以上の大差をつけて当選してしまうのだ。

その結果マエタケは、『夜ヒット』の番組内で「共産党の沓脱さん、当選おめでとう、バンザイ」と言ったと伝わるが、実際はそうではない。週明け1973年6月18日放送分で、出演を終えたこの日のゲスト「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」のボーカル、三條正人に「三條君、お疲れ様、バンザーイ」と、形式上「バンザイ」を言ったにすぎず、この時点では問題にならなかった。「バンザイ発言でマエタケが干された」は正確ではないのである。

問題となったのは、この翌週『週刊サンケイ』(現在は廃刊)が載せた「大阪・参院補選二つの小さな風景」というコラム風の記事に起因する。そこにはこうある。

《かねてから共産党支持を表明していた前田武彦が投票日前日に大阪へやってきて市内三か所で沓脱タケ子候補の応援演説。その一節。

「私は選挙速報を見るのが好きです。支持している候補が当選したときは涙を流して喜びます。月曜日の“夜のヒットスタジオ”では選挙について必ず何かいいます。見ててください」

番組のPRめいたセリフに聴衆はドッとわいた。調子づいたマエタケさん、次の会場では「勝ったら番組でバンザーイといいます。必ず見てください」》(『週刊サンケイ』1973年7月6日号)

これを目にした当時のフジテレビ社長の鹿内信隆は激怒。42.2%という今も破られていない歌番組史上最高視聴率を置き土産に、秋の改編で降板が言い渡された。それどころかマエタケは、『夜ヒット』のみならず、すべてのテレビ番組から姿を消した。伝聞の恐ろしさと言っていい。

そして古館&加賀コンビへ

そこから夜ヒットの司会は、三波伸介をへて、井上順・芳村真理のコンビが1985年9月末まで続き、その後、フリーとなったばかりの古舘伊知郎が抜擢。88年からは俳優の柴俊夫とのW男性司会となるも、次第に視聴率が低迷していく。原因は時代の変化にあった。というのも、歌番組そのものが時代と合わなくなっていたのである。

これまでテレビで流れる音楽は大まかに「歌謡曲」と「演歌」に二分されていた。それらをひっくるめて「流行歌」と呼んだ。それが80年代以降、音楽のジャンルが細分化されるようになった。いや、厳密に言うと、とっくの昔から類別されていたのだが、「歌謡曲」と「演歌」のどちらにも属さないジャンルが商業ベースに乗るようになったのだ。ロック、ポップス、ニューミュージックである。

歌番組を熱心に視聴していた筆者も、着物を着た演歌歌手と楽器を持ったミュージシャンを一括りにする番組構成に違和感を抱くようになっていた。80年代に入って『紅白歌合戦』の視聴率低下が叫ばれるようになったのもそのことと無関係ではなかったはずだ。『夜ヒット』のライバルと目された『ザ・ベストテン』などの老舗の歌番組の視聴率も軒並み低下している。逆に『ミュージック・ステーション』のように早い段階で演歌や歌謡曲を捨てて、J―POP中心にシフトした音楽番組が視聴率を急上昇させたのは、反作用と見ていい。

元号が平成に変わり『ザ・ベストテン』が1989年9月末で11年の歴史に幕を下ろした。当然「夜ヒットもそろそろ……」という話が持ち上がったが、時代に抗うように『夜のヒットスタジオSUPER』とタイトルを変え、継続の道を選んだ。

ここで、柴俊夫に代わる古舘伊知郎の新しいパートナーとして現れたのが、加賀まりこである。

かつて「和製ブリジット・バルドー」と呼ばれた加賀まりこも、このとき46歳。本業の女優より、毒舌を売りにした熟女タレントとして、当時引っ張りだこだった。おそらく、番組のスタッフも古舘伊知郎の話術と、彼女の毒舌をブレンドさせようと目論んだはずで、加賀本人にも大いにネジが巻かれたに違いない。そうでなくても、もともとこの番組はマエタケの毒舌で人気を博した歴史がある。

“原点回帰”の意味合いは、どこかに息づいていたと考えても不思議はない。ちなみに、本番当日のラテ欄の文言には「新司会加賀まりこ 古舘困惑」と生放送なのに、事前に内容を予見しているのがおかしい。

しかし、リニューアル初回の1989年10月18日、新司会の加賀まりこは「ゲストのロックバンド、プリンセスプリンセスのボーカル、奥居香(現・岸谷香)に暴言を吐き、奥居香を号泣させ、激怒させた」と今に伝わる。ただし、このときオンエアを視聴していた高校3年生だった筆者は、「いつもの加賀まりこだなあ」としか思わなかった。

発言を巡る確執…?

インターネットの書き込みや一部ネットメディアによると、プリプリのメンバーに「きったない格好」と言ったとあるが、記憶にない。奥居香に「ブタ」と言ったというのも、「あんたたち、生理中なの?」と言ったというのも、筆者は全然記憶にない。事実なら酷い発言で「芸能界を揺るがす大問題となった」のもむべなるかなといったところだが、筆者はいずれも憶えていない。筆者の感覚が麻痺していたのかもしれないが、翌朝のスポーツ紙にはこうある。

《加賀まりこの「夜ヒット」スタート

新司会者に加賀まりこ(45)を起用したフジテレビ「夜のヒットスタジオSUPER」が18日スタートした。加賀は初めはどことなく緊張気味だったものの、時間がたつにつれて激辛トークがポンポン飛び出した。出演者の田原俊彦に「色っぽいわね」と迫るあたり、熟年の貫禄といったところ》(『日刊スポーツ』1989年10月19日付)

《フジテレビの人気番組「夜のヒットスタジオデラックス」が18日、古舘伊知郎・柴俊夫コンビから古舘・加賀まりこへと司会を交代。装いもあらたに1時間の歌番組「夜のヒットスタジオSUPER」として再スタートした。(中略)「出演者を見ても半数はわからないのよね」と開き直っていた加賀だが、CDを聴いて勉強しただけあって出演者たちとの会話もスムーズ。歯に衣着せぬ姉御肌の6代目司会者は、芳村真理が築いた“熟女路線”を見事に返り咲かせたようだ》(『サンケイスポーツ』1989年10月19日付)

こういう記事もある、

《新司会者に加賀まりこを起用したフジ夜のヒットスタジオSUPER」が十八日スタートしたが、番組終了後、加賀の司会態度に対する視聴者の抗議電話が同局に殺到した。加賀は開始直後からコンビの古舘伊知郎の頭をこづいたり、番組進行スタッフに「(指示を)コロコロ変えないでよ」など、相変わらずの“毒舌”ぶりを発揮していた》(『スポーツニッポン』1989年10月19日付)

つまり、一部の視聴者の不興は買ったものの、加賀まりこにとって通常運転だったということだ。おそらく彼女自身、毒舌で売っている自分がキャスティングされた意味を改めて考えたに違いなく、後年この件について訊かれた際も「あれは良かれと思って、ああ言った」と発言している(『笑っていいとも』2006年5月9日放映)。

彼女が唯一読み違えたのは、「まあ、ひどーい。アハハ」と笑っていなしてくれる昭和の若い歌手と違って、プリプリのメンバーが立腹したことだろう。とはいえ、放映当日の深夜、奥居香は自身のレギュラー番組『ポップン・ルージュ』(TBSラジオ)で、「あのおばさん、嫌い。感じ悪い」と発言したというが、プリプリは翌11月15日に、何事もなかったかのように『夜ヒット』に出演している。

なお、その日の模様は「加賀まりこの強烈口撃にプリプリ奥居かおりも『ひぇ~、まいったぁ~!』というタイトルで、週刊誌が次のように報じている。長くなるが引用する。

《“毒舌女優”No1”の加賀まりこと、人気ギャルバンド“プリンセス・プリンセス”のボーカル奥居香。このパワフルなふたりが「バチバチと火花を散らせて“女の戦い”をくりひろげている」そんな気掛かりなニュースがいま、エスカレート中。テレビの生本番中に起きた、そのハプニングの本当の理由とは?リターンマッチはあるのか?

ことの発端は11月15日に生放送された『夜のヒットスタジオSUPER』での番組中に起こった。この日は松田聖子の1年ぶりの生出演もあり、スタジオはいつになく盛り上がっていた。聖子が新曲『Precious Heart』を歌う前、この曲を作曲した奥居香もトークに加わった。その数日前にアメリカでのローリング・ストーンズの公演を見に行ってきた奥居が「ニューヨークで大友さん(ハウンド・ドッグの大友康平)と会っちゃった」と、しゃべったからたまらない。すかさず司会の加賀まりこが「デートしたの?」と、突っこんだ。「いえ、してませんよ」と答える奥居に、「デートしなきゃ」と、ダメ押しの加賀のひと言。スタジオ内には一瞬しらけたムードが広がった。

これが第1ラウンドとすれば、次に奥居が自分がパーソナリティーのラジオ番組『ポップン・ルージュ』(TBS系)で、この日のことを話題にして、「もうテレビでひどい目にあっちゃった」と、グチったのが第2ラウンドというわけ。一部の報道によると「加賀まりこなんて大嫌い。『夜ヒット』に出ないとは言わないけど、加賀まりこの顔は見たくない!」と、奥居が激しく口撃したことになっていたが、取材を進めてみると実際はもっとソフトな言いまわしだったというのが、どうも真相のようだ。(中略)

これからも、加賀の毒舌はとどまるところを知らないようだが、その防衛策(!?)として、『夜ヒット』に出演するアイドルたちが今、密かに加賀を“よいしょする会”を結成中らしい。(中略)それはさておき、気になるプリプリの『夜ヒット』出演はこれまでどおりなのでご安心を。もっとも、その時には“毒舌”第3ラウンドが仕掛けられるかもしれないのでお見逃しなく!!》(『週刊明星』1989年12月24日号)

伝聞の恐ろしさ

勘の鋭い読者はお気付きだろうが、これは当時のフジテレビの番組宣伝課が、週刊誌に頼んで書かせた“プロモ記事”にほかならない。リニューアルして一カ月経って、期待以上に視聴率が伸びなかったからこその措置で、本当に問題が生じていたら、テレビ局はこうした記事は絶対に出稿させない。そうでなくても、音楽番組にとって、アーテイストはもちろん、レーベルやプロダクションは無下に扱えないものである。

当時奥居香が加賀まりこに腹を立てたのは、おそらく間違いないのだろう。筆者が鈍感だっただけで、加賀まりこの毒舌の度が過ぎていたのも事実かもしれない。また、筆者が追えていないだけで、実は複雑で根深い因縁が芽生えていたのかもしれず、そのことも含めてまったく否定しない。

しかし、少なくともこの時点では「芸能界を揺るがす大問題」になったわけではなかったのである。

結局、番組の人気が回復することはなく、リニューアルから一年後の1990年10月3日、『夜のヒットスタジオ』は22年の歴史にピリオドを打った。現在この件をインターネットで検索すると、「加賀まりこの暴言が終了の原因」という書き込みにヒットするが、マエタケの舌禍の経緯と同様、まったくもって正確ではない。彼女を全面的に擁護するわけではないが、加賀まりこがキャスティングされていなくても、遅かれ早かれ番組は終了していたはずだからだ。

筆者は改めて、伝聞の恐ろしさを感じる。同時に、「やらないで後悔するより、やって反省した方がいい」という冒頭の至言が脳裏をよぎる。些細なリップサービスが命取りとなった前田武彦。求められるがまま、職務に忠実であろうとした加賀まりこ。彼らの心情を代弁するならば、「やって後悔することも確実にある」いや、むしろ、「後悔がすべて」という気がしないでもない。

  • 取材・文細田昌志

    ノンフィクション作家。1971年岡山市生まれ。鳥取市育ち。サムライTVキャスターをへて放送作家に転身。テレビやラジオを担当しながら、雑誌やWEBに寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社)、『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)。近著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)が「第43回講談社・本田靖春ノンフィクション賞」を受賞。

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