94年12月2日「歌姫」中森明菜が棲んでいたあの時代 | FRIDAYデジタル

94年12月2日「歌姫」中森明菜が棲んでいたあの時代

細田昌志の芸能時空探偵⑨

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1997年の中森明菜(共同フォト)
1997年の中森明菜(共同フォト)

随分と前になるが、テレビのバラエティ番組で「歌姫と聞いて誰を思い浮かべるか」といったアンケートを紹介していた。二十代は西野カナやあいみょん。三十代は浜崎あゆみ、MISIA、宇多田ヒカル。四十、五十代代以上となると、松田聖子や山口百恵、薬師丸ひろ子、今井美樹といった面々が名を列ねていた。

不自然なのは、その中に中森明菜の名前が含まれなかったことだ。

もちろん、山口百恵も松田聖子も素晴らしい歌手だとは思うが“歌姫”と呼ぶには違和感がある。歌の世界に生きてこその歌姫であり、山口百恵も松田聖子も歌の世界にだけ生きているようには見えない。山口百恵に至っては今は歌手ですらない。その意味で言うと、中森明菜こそが「歌姫」と呼ぶに相応しいのではないか。同名のカバーアルバムのシリーズもある。本人も自覚しているはずだ。

その中森明菜が「渋谷パルコ劇場」というコンサートを行うには比較的コンパクトな会場で、復活コンサートを行ったのは、今から27年前の1994年12月1日のことである。そこで明菜は自らを「吉本興業」と称し、「ワの付くレコード会社からはCDを買わないで」「賞レースなんて全部嘘」「ワイドショーはいい加減」などといった毒舌漫談を披露している。

このとき、彼女は何がしたかったのか。どういう状況にあったのか。これまでの半生を振り返りながら、中森明菜の真の姿を探ってみたいと思う。

「戦後最大の誘拐事件」と呼ばれた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」(1963年3月31日発生)。事件から2年が経って、犯人・小原保は逮捕された。国民がその報に接した9日後の1965年7月13日、大田区に六人兄弟の5番目の三女として中森明菜は生まれた。歌手を目指していた母親の影響もあって、彼女も少女時代からピアノやクラシックバレエを習い、次第に将来は歌手になることを夢想するようになる。

具体的な行動に出たのは16歳のときである。多くの歌手志望者がそうであったように、往年のオーディション番組『スター誕生』(日本テレビ系)に応募のハガキを出した。意外なようだが、中森明菜は予選落ちも含めて、実に7回応募し3度出場。合格するまで3年の歳月を費やしている。

初出場は1979年。予選、本選ともに岩崎宏美の『夏に抱かれて』を歌った。応募者がスタ誕出身者の曲を選択するのは珍しくない。審査員の心証をよくするためで、特に審査員・松田敏江の秘蔵っ子である岩崎宏美の曲を歌うということは、中森明菜でさえもその前例に従ったということだ。気難しい阿久悠、要求の高い都倉俊一と比べて、唯一の女性審査員の松田敏江は、「気に入られると高得点をもらえる」と応募者に見られる向きもあった。素人時代の中森明菜もそれを期待したのだろう。

しかし、思惑は外れる。誰あろう松田敏江本人に辛辣な言葉を浴びせられるのだ。

「あなたは表情に若々しさがないわ。この曲は軽いノリの曲なんだから、若さがないといけない」──感想はこういった内容だったという。

捲土重来、翌年も中森明菜は応募のハガキを出す。再び予選を通過し本選まで勝ち上がった。落選した彼女に対し、「この子は来年また来るだろう。一年たったらどう化けるか見てみたい」と番組関係者が目星を付けていたと言うから、その期待に応えたことになる。

このときは予選、本選ともに松田聖子の『青い珊瑚礁』を歌った。松田聖子はスター誕生の出身歌手ではない。おそらく、明菜の脳裏には前年の失敗が頭をよぎったに違いない。いくら媚びようと、松田敏江自身が気に入らなかったら意味がない。むしろ媚びる姿勢がマイナスに働くのではないか。

それより、年齢も近く、新人アイドルとして大活躍をしていた松田聖子の曲を歌うことで、新鮮さを強調したかったのかもしれない。指摘されたように、表情の若さもアピールしたかったのかもしれない。

それでも、松田敏江はこきおろした。

「あなた、歌は上手だけど、顔が子供っぽいから、童謡でも歌った方がいいかしらね」

戦前に『日本婦人の歌』『満州帝国皇帝陛下奉迎国民歌』を歌うなど、帝国政府お抱えの「国民歌謡歌手・松田トシ」として活躍し、戦後は「歌のおばさん」として人気を博す一方、上田女子短大副学長、紫綬褒章の栄誉に与るなど、阿久悠や都倉俊一といった当時の新世代にも一目置かれた松田敏江だったが、大物らしからぬ発言に会場はざわついたはずだ。

そもそも「表情に若さがない」と切り捨てておきながら、一年後に、「顔が子供っぽい」と酷評するのは論理破綻以外の何物でもない。余程、生理的に合わなかったとしか言いようがない。

普通の応募者なら、あまりのことに何も返答できないか、落胆して涙を見せるか、無言のまま肩を落として立ち去るか、そのいずれか、もしくは、そのどれもであろう。しかし、天賦の才を持つ中森明菜の場合、そうはならない。

「でも、松田先生、スタ誕では童謡は受けつけてくれないじゃないんですか」

このとき、会場にいたわけでもなければ、テレビの放送を視聴していた記憶もないのだが、右の返答に番組関係者が凍りついただろうことは察しがつく。この手のオーディション番組で、歌手志望の素人が、将来を左右しかねない大きな権限を握る審査員に口答えするなど前代未聞のことだからだ。現代ならSNSで大炎上していたに違いない。いや、その前にディレクターが、当該箇所を切り取ってしまうだろう。

当然ながら、松田敏江は低い得点しか与えなかった。結果的にそれが響いてこのときも中森明菜は不合格となるのだが、審査員、関係者ともに大きなインパクトを残したはずだ。事実、一部の視聴者の間で彼女の言動は評判を呼んだという。今ならその時点でスターになっていたかもしれないし、同時に、松田敏江の評論家生命が断たれていた可能性もある。

《小泉今日子も中森明菜も、「スター誕生」の堂々たる合格者ではあるが、決して、卒業生とか生徒というようには見えなかった。

彼女たちは、少女であっても、どこか独立していて、極端なことをいうと、他人の智恵を拒んでいるようにさえ見えたのである。

(中略)小泉今日子も中森明菜も、大人のプロに対して、どこかヒラヒラと拒絶の手を振っていたような気がする》(『夢を食った男たち「スター誕生」と歌謡曲黄金の70年代』阿久悠著/文春文庫)

翌年も応募した中森明菜は、予選を竹内まりやの『September』で、本選を山口百恵の『夢先案内人』で臨み、審査員・中村泰士の強い推しもあって、三度目の正直で見事合格、プロデビューの切符を掴んだ。松田敏江は過去2回をさらに下回る低い得点しか与えなかったが、合否にさして影響しなかった。

以後の中森明菜の履歴は、改めて記すまでもない。

1982年5月、来生えつこ作詞、来生たかお作曲による『スローモーション』でデビュー。同年7月リリースの『少女A』が大ヒットし一躍人気アイドルの仲間入りをはたすと、11月リリース『セカンド・ラブ』では初のチャート1位、70万枚の大ヒット。人気番組『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』ともに1位を獲得する。

勢いは留まることを知らない。翌83年は、『1/2の神話』『トワイライト‐夕暮れ便り‐』『禁区』とリリースした3曲すべてが前出の番組で1位を獲得し、うち2曲がチャート1位となり歌謡賞を総なめ。併せて初の『NHK紅白歌合戦』に出場。松田聖子と並ぶ二大女性アイドルとしての地位を揺るぎないものとした。デビューからの3年間に、“歌姫”としての原点があり、その後の活躍と基礎は、形作られたと言っていい。

さらに85、86年は『ミ・アモーレ』『DESIRE -情熱-』が揃って大ヒット。女性歌手初の2年連続レコード大賞受賞という大栄誉をも勝ち得てもいる。

87年にはこういったことも起きた。「これは、あなたに歌ってもらいたいの」とミュージシャンの加藤登紀子が、自身が創作した楽曲の提供を申し込んできた。好きな楽曲のカバーを創作者に要請することはままあれど、創作者から使用を託すのは異例のことだ。大先輩のリクエストに、明菜は花束を贈ることで回答とした。それこそが87年度年間チャート6位を記録した『難破船』である。中森明菜の代表曲の一つに数えられ、長く多くの人に愛される名曲である。

“歌姫”に相応しく、神懸かり的な中森明菜の活躍ぶりだが、弱点はプライベートに潜んでいた。よく知られる近藤真彦との悲恋である。彼の自宅で自殺を図り、芸能界は上を下への大騒ぎとなった。このとき高校生だった筆者も「これはえらいことが起きた」と連日ワイドショーを齧り付くように視聴していた。

翌90年に芸能界に復帰すると、24枚目のシングル『Dear Friend』がオリコン1位、年間6位と完全復活を印象付け、91年にはデビュー以来の所属事務所を離れ新事務所を設立。92年には安田成美とW主演となったフジテレビ系ドラマ『素顔のままで』の月島カンナ役が好評を博し、『ずっとあなたが好きだった』(TBS系)と並ぶこの年の大ヒットドラマともなった。筆者としては『古畑任三郎』1stシリーズ第1回目の犯人、小石川ちなみ役(「死者からの伝言」1994年4月13日放映)の好演が記憶に新しい。

高値安定を回復させたかのように映る中森明菜の芸能活動だったが、実情はそうではなかったらしい。金銭問題、男女関係のスキャンダル、元マネージャー女性による暴露本、マネージメントをめぐる対立と、数え切れないトラブルが次から次へと圧し掛かった。「マスコミが待ち構えている」と生放送のラジオ出演をすっぽかしたこともあった。パーソナリティは「明菜さんは体調不良で急きょ……」と言うほかなく、当然活動の幅は限られるようになる。渋谷パルコ劇場のコンサートは、まさにその渦中に行われたものだ。

《暴露本とかつての恋人・近藤真彦(30)の結婚というダブルショックで開催が危ぶまれていた中森明菜(29)の3年5カ月ぶりのコンサートが1日夜、東京・渋谷パルコ劇場でスタート。2日も同時間(午後9時)帯で行われた。ステージを前所属レコード会社やワイドショー番組への不満爆発の場と変えた明菜は、ファン400人を相手に漫談風に日ごろの愚痴を連発。「みんなが私をいじめるの」とつぶやく明菜に、頑張れコールが沸き起こっていた》(『日刊スポーツ』1994年12月3日付)

文中にある「前所属先レコード会社への不満」とはワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック・ジャパン)との一件を指す。

自殺未遂騒動が起きた1989年7月以前の楽曲の版権を持つ同社は、この時期やたらと過去のヒット曲からなる「中森明菜ベスト盤」をリリースしていた。正統な権利であることは理解出来るのだが、彼女にとって我慢のならないことだったのは容易に察しがつく。

実際この日のライブがいかなるものだったか。コンサートの様子を報じた日刊スポーツによると《「きのうまで全然声が出なかったの。今日は出てホッとした。みんなどうだった?」という明菜の問い掛けにファンは涙で「良かったよ!」と声が出たことを会場中で喜ぶという不思議な光景が展開されていた》(同)と皮肉を込めてまとめている。

90年代をどうにかやりすごした中森明菜だったが、トラブルが常態化すると話題にも上らなくなった。彼女の挙措に世間はさして関心を持たなくなったのである。

2000年代に入ると、演歌やフォークソングのカバーをリリースするなど精力的に活動を続け一定の評価も受けたが、2010年に無期限活動休止を発表。2014年の『NHK紅白歌合戦』で突如、現在の居住先であるニューヨークから生中継で出演し、翌年早々にシングルとカバーアルバムを連続リリースするなど、完全復活を思わせたが、2021年現在、実質的に活動休止状態にある。

今も中森明菜についての論評を、時折目にする。「もう一度あの姿を見たい」といったものや「あの歌声を生で聴きたい」。「今の時代には中森明菜が足りない」といったSNSの書き込みもあった。待望論は根強く、それらの声に異論はない。異論はないのだが、歌姫の棲む世界が“歌の世界”であるなら「無理に姿を見せなくていいかも」という気がしないでもない。筆者はそう考えている。

(了・文中敬称略)

  • 細田昌志

    ノンフィクション作家。1971年岡山市生まれ。鳥取市育ち。サムライTVキャスターをへて放送作家に転身。テレビやラジオを担当しながら、雑誌やWEBに寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社)、『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)。近著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)が「第43回講談社・本田靖春ノンフィクション賞」を受賞。現在はインターネットラジオ『細田昌志の時空旅行RADIO』(Audee)月2回配信中。

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