89年7月「異種格闘技戦」で大逆転を見せたアントニオ猪木の奇跡 | FRIDAYデジタル

89年7月「異種格闘技戦」で大逆転を見せたアントニオ猪木の奇跡

細田昌志の芸能時空探偵⑥

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記者会見で参院選挙に出馬する意向を発表するアントニオ猪木(89年、時事通信)

大阪に住んでいた二十歳の頃、筆者は甲子園球場でビールの売り子のアルバイトをしていたことがある。

ナイター観戦のビールはバカスカ売れるイメージがあるが、実際は試合によって良し悪しがある。売れ行きが好調なのは乱打戦、ホームチームの阪神が優勢ならなおよし。一方、投手戦となると売れ行きはさっぱり伸びない。客も酒どころではなくなるのだろう。

では、爆発的に売れるのはどんな試合かというと、リードされていた阪神が逆転する試合である。これは凄い。めちゃくちゃ売れる。「試合をひっくり返す」と言うが、甲子園全体がひっくり返ったような騒ぎとなる。途端に「ビールくれ」「ビール、ビール」「こっちも」と次々に声がかかるのだ。

中には「兄ちゃん、今そこにあるビール全部くれ」と言う客まで現れる。どうするのか見ていたら、周囲の見知らぬ客に配り始めた。それだけ「逆転」という現象は、人間本来のカタルシスを呼び起こすものかもしれない。これが奇跡的であれば余計に手が付けられなくなる。

今から32年前の1989年7月24日は、“燃える闘魂”アントニオ猪木が人生最大と言える「奇跡の大逆転劇」を見せた日である。

1989年6月のある日、高校3年生だった筆者が職員室のドアを開けると、退屈そうにスポーツ新聞を広げていた新卒二年目の石浦外喜義教諭の姿が視界に入った。彼は筆者の通う私立鳥取城北高校で保健体育の授業を受け持っていた。

余談になるが、この石浦教諭は程なくして、保健室に常勤する美しい女性教諭と結婚し、男児を授かる。その男児こそ、現在大相撲力士として活躍する石浦関である。さらに、彼が顧問を務める鳥取城北高校相撲部は、横綱照ノ富士、元関脇の逸ノ城、元大関の琴光喜等々、各界の人気力士を輩出し、その論功行賞でか、現在彼は同校校長になりおおせた。

田舎の若い高校教師にそんな輝かしい未来が待っていようとは、おそらく本人も、この時点では想像していなかったに違いないが、筆者の目に飛び込んで来たのはそんなことではなく、彼が手にするスポーツ紙のリード部分だった。

そこには「猪木参院選出馬へ」とあった。

このときアントニオ猪木は46歳。2月に長州力にフォール負けを喫し、3月には前座の第一試合に出場し、4月にはプロレス初の東京ドーム興行で旧ソ連の柔道家にKO負けを喫していた。どことなく、引退へのカウントダウンが始まったような気がしていた。

そんな中、青天の霹靂とも言うべき政界転出報道である。石浦教諭から引ったくるようにスポーツ紙を手にすると、記事は次のように報じていた。

「猪木参院選出馬」「全国比例代表制で政党を率いる」「政党名は猪木党」……
「猪木が選挙に出る」とはすなわち、「新しい戦いに討って出る」ということにほかならない。高校生の胸は高鳴った。

筆者は少年時代から“猪木信者”だった。

本格的にプロレスを好きになったのは、1979年の小学校2年生、7~8歳である。この年からテレビのプロレス中継を見始めるようになった。世の多くの人がそうであるように、テレビに映るアントニオ猪木にすっかり魅了された。

小4のときタイガーマスク(佐山聡)が現れると、鋭いキックと華麗な空中殺法の虜となったが、心の中心から猪木が消えることはなかった。小6のときには、甘いマスクのサラサラヘアという、これまでのプロレスラー像とは違う知的な印象の前田日明に心を奪われたが、やはり猪木という軸はぶれなかった。

子供なりに重要な局面に立たされることは、ままある。しんどいことも、つらいこともなくはない。そんなとき、筆者は猪木の姿を思い浮かべた。「猪木ならどうするだろう」と自問した。それが自分の中の“猪木イズム”となって培養されたのは言うまでもない。

そんな憧れのアントニオ猪木が未知なる戦い、参議院選挙に出馬するというのだから、信者として応援しないわけにいかない。なんとか当選させたい。そのための労力は惜しまない。そんなことをつらつらと考えていた。唯一問題があるとするなら、17歳の筆者に選挙権がなかったことである。

このときの一連の流れを、当時の記憶と照合しながら新聞報道を追っていくと、いかにも独創的でオリジナリティ満載の選挙戦のスタートを切ったことが判る。

スポーツ紙のスクープを受けて、猪木は6月15日、溜池山王の全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタル東京)で急きょ会見を開いている。集まった150人の報道陣は参院選出馬の正式発表と思ったはずだが、実際は入籍会見だった。こんな候補者は後にも先にも猪木だけだろう。

16日、新日本プロレス後楽園ホール大会で、メインイベントの長州力&マサ斎藤対ベイダー&レイガンズが終了するとリングに登場し、「来月“異種格闘技戦”に挑んでまいります」と、ファンの前で初めて出馬を明言した。

20日、事務所開きの席上で「予定していた『猪木党』は個人名で使えないから」と白紙とし、代わって「スポーツ平和党」という、いかにも取って付けたような名称となった。併せて「国会に卍固め」「消費税に延髄斬り」という奇抜な選挙公約を掲げる。

7月1日には大阪事務所を開設し、翌2日には、新橋のヤクルトホールで「全国学生決起集会」を開催。比例名簿10人もようやく出揃い、5日の告示日をどうにか迎えた。このとき、出陣式に駆けつけたのは、新日本プロレス全選手のほか、ガッツ石松、せんだみつお、ビッグ・バン・ベイダーの三名。その様子をニュースのダイジェストで見た筆者は、いささか心細くなったことを憶えている。

いざ、選挙戦が始まると、猪木関連、と言うより、スポーツ平和党に関する報道はほとんどなくなってしまう。

というのも、この年の参院選の争点は「消費税撤廃」「リクルート疑惑」「農産物輸入自由化」の三点セットに加え「宇野首相の女性スキャンダル」で、与党自民党に大逆風が吹き荒れていた。代わって大きく議席を伸ばすどころか、過半数を押さえると見られたのが、土井たか子率いる野党第一党の日本社会党(現・社民党)だった。空前の「おたかさんブーム」の真っ只中だったのである。

となると、自民党のみならず、社会党以外の野党もあおりを食う。事実、与党への批判票の多くが社会党に吸収され、公明党(当時は野党)、共産党、民社党(現在は消滅)といった主要野党は軒並み議席を減らしている。同時に参院選おなじみのミニ政党は議席獲得どころか、風前の灯火となっていた。猪木がスポーツ平和党を率いて参院選に討って出たのは、こんな状況下においてである。

NHKの政見放送も見た。直木賞作家の村松友視との対談形式である。この時期「元気ですかーっ」はまだなく、「奴隷解放のリンカーンも実はプロレスラーだった」とか「北方領土で共同開発をする」とか、ボソボソ喋るだけで、さして印象に残るものではなかった。青島幸男(二院クラブ)、安西愛子(太陽の会)、清川虹子(年金党)、山本コウタロー(ちきゅうクラブ)といった、口の立つタレント候補と比べて、猪木らしくない地味さを感じた。

それどころか、「本当に大丈夫か」と思わせる場面をいくつか目にした。夜のニュースの「全国比例を追う」みたいなコーナーで、スポーツ平和党の選挙戦を報じていた。キャスターが「100万人の握手作戦は達成しそうですか」と水を向けると「ええ、大丈夫です」と党首の猪木はどこかやつれながら、自信満々に答えた。するとキャスターはこう返した。

「ですが、その大半は選挙権のない中高生らしいじゃないですか」

皮肉そうにそう突っ込むと、さすがの猪木も返す言葉がなかった。同時に、選挙権のない高校生の筆者まで責められているような気がした。

また、選挙期間中に海底噴火による群発地震が伊豆半島を襲ったときのことである。すかさず猪木は伊東市を訪れ、スポーツ平和党名義で見舞金100万円を手渡した。

本来なら美談で終わるところだが、これはれっきとした公職選挙法違反である。すぐさま伊東市の秘書課長が東京の選挙事務所に直行し、その日のうちに100万円を返却して事なきを得た。しかし、一部の新聞とニュースは、「こんなことも知らないのか」といった冷笑的なニュアンスで事の顛末を伝えた。

選挙も終盤となると、ニュースやワイドショーで議席予測を流すのは、今も昔も変わらない。この時期、選挙のたびにメディアに露出していたのが「政治広報センター代表」の宮川隆義である。「社会党大躍進・自民大幅減」という予測を口にしたのち、話題は全国比例に移った。「二院クラブ、税金党、進歩党、サラリーマン新党辺りが一つずつ取れるかどうか」と言ったあと、宮川はこう付け加えた。

「猪木君はねえ、実はいい選挙をしているんですよ。でも、いかんせん準備不足。おそらく届かないと見ています」

驚くくらいはっきり落選を示唆した。これを見た筆者は、「さすがの猪木でも今回ばかりは逆転は無理かも」と悲観的になったのを強く憶えている。

開票日の7月23日。かねてより選挙好きだった筆者は、誰に頼まれたわけでもないのに、「最後の一議席まで選挙速報を見届けよう」と決意した。すでに夏休みを迎えており、翌朝の心配もない。

とはいえ、下馬評通り社会党の議席が次々に埋まっていくのを眺めるだけで、たいして面白くなかった。土井たか子が勝ち誇ったように「山は動いた」と言う一方、「歩くポマードの宣伝塔」の如き橋本龍太郎(当時自民党幹事長)が煙草を吹かしながら「ちくしょう」「ここも取られたか」と、苦々しそうに呟いた。

この年の参院選において、ミニ政党の乱立する全国比例に焦点があてられたのは思いのほか少なかったように思う。「そうではない」という異論もあろうが、鳥取県はそうでなくても放送局の数がNHKも含め四つしかなく、都市部と比べて少ない。スポーツ平和党にカメラが向けられたのも、一つの局につき一度あるかないかで、その都度、日焼けした猪木の疲れた表情を映し出すにとどまった。

当初は二院クラブに次いで第2位の得票率を稼いだスポーツ平和党も、夜半すぎになると思うように票が伸びなくなる。午前二時をすぎたあたりで筆者も眠くなってしまった。政治評論家らしき人が「おそらく、ここからは主要政党で票を分け合うでしょう」と言った。事実上の終了宣言に聞こえた。「猪木落選かあ」と落胆しながらベッドに入った。

翌朝のことである。驚くことにテレビでは昨夜から開票作業がまだ続いていた。というのも、この時代の投票率は軒並み高く、89年の投票率は65・01%、前回86年など71・3%もあった。それも現在と違って、投票が午後6時までだったにもかかわらずである。選挙が国民の関心事だった時代の話である。

午後を過ぎた頃だろうか。「自民党と野党が最後の一議席を争っている」と、どこかの局のアナウンサーが伝えた。

「その野党というのは……スポーツ平和党です」

信じられなかった。一度は敗れたと思われた猪木が甦ったのだ。「やっぱり燃える闘魂だ」と思った。それでも「どうせ最後は自民党が持っていくだろう」という想いもなくはなかった。「ここまでやったんなら、よかった」という諦念である。それにテレビも常に選挙速報を続けていたわけではない。時折、ニュースで報じる程度のことになる。

夕方になって筆者は、ロッカーに入れたままにしていた体操着を取りに学校に行った。校舎を出て、サッカー部が練習する校庭を横切ろうとしたところで、クラスメイトの乾が「お前、こんなとこで何してんねん」と、柔道着のまま血相を変えて筆者に近寄って来た。大阪出身の乾は冗談の好きな男だったが、このときはそうではなさそうだった。

「お前、こんなとこプラプラしててええんか。さっき、柔道場のテレビでやってたぞ。猪木当選したんや」

言葉がなかった。もちろん嬉しかったが、それより、一度ならず二度も諦めた自分の恥ずかしさが先に立った。

2021年夏、拙著『沢村忠に真空を飛ばせた男‐昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)が「第43回講談社・本田靖春ノンフィクション賞」の栄誉に与った。詳しい選考過程はまだ知る由もないが、自分としては「奇跡の大逆転劇」である。刊行時はAmazonの書影すら反映されていない、誰からも期待されていなかった作品が伝統あるノンフィクションの賞を手にしたのだ。「兄ちゃん、今そこにあるビール全部くれ」と言いたい気分である。

「取材開始から刊行まで十年もかかった」ことが特に評価されるが、遅滞と怠慢も否めない。ただし、取材開始から六年間も版元が決まらなかったことも背景にあった。正直な話、当初はどこの出版社も相手にしてくれなかったのだ。

普通の書き手なら、おそらくこの時点で投げ出していたはずである。実際、何人かの出版関係者から、「そんな無名の人を書いたって面白くならない」と言われた。内容を伝えただけで「きっとつまらない」と言う人もいれば「出版不況だから難しい」とそれらしく伝える人もいた。

中には親身になって「時間の無駄だと思う」と諭してくれた人もいた。「そんなことをしないで、担当している番組を大切にしないと」とはある意味において正論だ。

しかし、筆者はいずれも聞く耳を持たなかった。どこ吹く風だった。他人が何を言おうと、所詮は他人事でしかない。このときの心情を思い起こすと、自分の中の「アントニオ猪木」が発動していたとしか思えない。「絶対に諦めん」「今に見とけ」という反骨芯はすなわち「猪木イズム」と言い換えていい。

昨今、アントニオ猪木の病状が伝えられて久しい。痩せて変わり果てた姿は痛々しく、「さすがに今回ばかりは猪木は無理かもしれない」という声を聞いたのも一人や二人ではない。

しかし、筆者は存外安心している。多分、アントニオ猪木は鮮やかに復活するに違いない。一年前、あんな元気に高円寺でチャンコを食べていたのだ。きっと復活する。間違いない。確信している。

32年前の夏の「奇跡の逆転劇」に比べたら、この程度の病気は、どうということはないのではないか。

(文中敬称略)

  • 執筆細田昌志

    ノンフィクション作家。1971年岡山市生まれ。鳥取市育ち。サムライTVキャスターをへて放送作家に転身。テレビやラジオを担当しながら、雑誌やWEBに寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社)、『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)。近著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)が「第43回講談社・本田靖春ノンフィクション賞」を受賞。

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