異国で専業主婦だった宝塚OGが日本で唯一の講師にたどりつくまで | FRIDAYデジタル

異国で専業主婦だった宝塚OGが日本で唯一の講師にたどりつくまで

「東の東大、西の宝塚」永遠のフェアリーたちのセカンドキャリア

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撮影:渡辺知寿
撮影:渡辺知寿

1984年に宝塚歌劇団へ入団し、現在は自身のスタジオ「studio unseen」にて歌手や俳優へのヴォイスレッスンや演技指導をする登坂倫子さんは、星組70期生 乙原愛の名でタカラヅカで活躍した娘役だった。1993年の退団から25年経った2018年にも、チェコ共和国にて自作の一人音楽劇を演出家、女優として上演し、成功を収めた。

経歴を見る限りでは、タカラヅカを去ってもなお、エンタテインメントの世界から離れたくなかったのだと推測するが、実際には違う。渡米先での挫折やシングルマザーとして奮闘する中で、舞台発声法の分野では日本でたった一人しかいない国際認定講師(リンクレイターヴォイスワーク)を得ていた。

「世界を見た!」ニューヨーク公演での喝采

登坂さんは、入団6年目となる1989年10月に行われたニューヨーク公演のメンバーにも抜擢され、花組トップスターとして一時代を築いた大浦みずきさんらとともに、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールの舞台を踏んだ。劇場で何年も出されることがなかった、チケット「sold out」の看板を掲げる、伝説の公演を飾ったのだ。

「それはもう、感動しました!劇場スタッフの方が走って看板を取りに行って掲げて。 ニューヨーク公演では、何もかもが違っていました。〝世界を見た!〟という感覚でしたね」

舞台で華々しい活躍を見せる一方で、在団中に親との別れを経験する。彼女の中で「家族」ということについて考えるきっかけになった。ニューヨーク公演を終えて、3年が経った頃、太田哲則先生 作・演出の宝塚バウホール公演、青年詩人の波乱万丈の生涯を描いた『ハロー、ジョージ!』での退団を決意した。

「両親が立て続けに病気で他界してから3年、当時は目の前のことをクリアするのに精いっぱいで、とにかく時間の流れが速かったですね。『ハロー、ジョージ!』という作品に納得できて、退団を決めました。稽古中はとても楽しくて!好きな状態で幕を下ろすことができました」

両親が他界し、その後、渡米先で宝塚歌劇団の先生やOGに助けられた話に至ると「泣いちゃうんですけど」としんみりとした表情になった(撮影:渡辺知寿)
両親が他界し、その後、渡米先で宝塚歌劇団の先生やOGに助けられた話に至ると「泣いちゃうんですけど」としんみりとした表情になった(撮影:渡辺知寿)

退団後、夫の転勤でNYへ

退団後、登坂さんは日本人男性と結婚し、夫の転勤でニューヨークに1年、ロサンゼルスに8年住むことになる。ニューヨーク公演のときには、まさか自分が6番街をベビーカーを押して歩くようになるとは想像もできなかっただろう。かつての印象とは違うニューヨークで長男を出産し、子育てが始まった。4歳違いで次男を迎える頃になっても、日本人の知り合いは限られた。

「両親を頼ることもできず、育児は無我夢中でした。インターネットも普及していない時代に、宝塚歌劇団にいた演出家の渡辺武雄先生がアメリカに住んでいる卒業生を調べて名簿を作ってくださったんです。何かあれば助けてもらいなさいと。でも、自分から連絡することはありませんでした。

ちょうど下の子がお腹にいて8か月くらいのときに、名簿にお名前があった、母くらいの年齢の方から〝卒業生が集まっているからいらっしゃい〟とお電話をもらいました。恐る恐る行ってみたら、私へのサプライズのベビーシャワーパーティーだったんです!風船がいっぱいで、びっくりしてうれしくて!泣きました。タカラヅカの名簿だけで、そこまでしてくださるのかと。渡辺先生が大切にしていた人とのつながりに助けられました」

2児の母となり、卒業生ともつながり、順調に幸せな家庭生活を送っているように見えたが、大きな挫折を体験。次男が2歳を迎えるあたりから離婚を考えるようになった。アメリカはシングルマザーへの支援も手厚い。ここならば、きっと新しい生活ができると感じた登坂さんは、配偶者ビザから学生ビザに切り替え、学校に通うことを選んだ。

「退団後は二度と舞台には立たないと決めていて。でも、転機が訪れたのです。離婚を決意したことから、学生ビザに切り替えることになり、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)生涯学習プログラムの、子どもに演劇を教える先生になるためのクラスに通うことにしました。子育て経験も活かせると思って。

しかし、このクラスが開講人数に達しなかったために中止に。その代わりに選んだのが、演劇の父、と言われるロシアのスタニフスラフスキーが考案した演劇メソードのクラスでした。そこでロシア人の素晴らしい先生に出会い、さらに学びを深めたいと、ステラ・アドラー演劇学校へ通うことになったのです。そこで、いまの仕事、リンクレイターヴォイスの講師へと繋がりました」

リンクレイターヴォイスワークとは、これまで知っていた舞台発声のアプローチとは全く異なる方法だったと登坂さんは語る。産声をあげるときの赤ちゃんのように、緊張や邪念が入らない状態を作っていく。そうすることで、本来持っている人の声を響かせ、心と身体を整えるヴォイスワークである。この新しい方法に魅了され、登坂さんは現在に続く生業としているのだ。

学校に通う間、子どもたちの面倒を見てくれたのは、また卒業生だった。自宅と学校、卒業生の自宅の送迎は数時間かかり、決して近いとは言えない距離ではあったが、頼るほかに方法はなかった。活動していた年代も違い、会ったこともない卒業生がただ、タカラヅカ出身というだけで血のつながりがないのに、家族以上の付き合いをしてくれるというのだから、やはりタカラヅカは特別な存在なのだろう。

リンクレイターヴォイスワークでは、産声をあげるときの赤ちゃんのように、緊張や邪念が入らない状態を作る。登坂さんは緊張した状態にある「脊椎」をゆるめるとどう変化するかを実演を交えながら伝える
リンクレイターヴォイスワークでは、産声をあげるときの赤ちゃんのように、緊張や邪念が入らない状態を作る。登坂さんは緊張した状態にある「脊椎」をゆるめるとどう変化するかを実演を交えながら伝える

9.11による「突然の強制退去」で日本へ帰国

拠点はすっかりアメリカ。離婚をしても日本に戻るつもりはなく、アメリカで生計を立てるつもりだった。必死で学ぶ最中に、9.11の影響で移民局の規制が厳しくなり、2004年12月に突然、日本に帰国しなければならなくなってしまった。タカラヅカに戻れるはずもなく、何の基盤もない中で子どもを養っていくため、自分がアメリカで学んできたことを日本で指導する仕事を始める。

「人生が変わるようなヴォイスワークだったんです。在団中に知っていたら、もっと違っただろうと。リンクレイターヴォイスワークの正式な認定講師先生になるためのトレーニングはまだだったけれど、応援してくれた先生の推薦状を手に帰国しました。日本で需要があるのか不安でしたが…」

だが、ここでもまたタカラヅカに救われる。登坂さんの同期のはからいで大阪で小さなワークショップを開催し、その場で参加者の声を変えた自分に、手ごたえを感じた。東京でもレッスンを始めると、徐々に生徒が増えた。

「そうすると、やはり正式な資格をもって教えなければ失礼にあたると思い始めたんです。このヴォイスワークを作り上げたクリスティン・リンクレーター先生が、イタリアでワークショップを行うことを知り、申し込みました」。

しかし、無理がたたった登坂さんは入院してしまう。この時はすべてをキャンセルしたが、諦めきれずにチャンスをうかがっていた。

「NYコロンビア大学のクリスティン先生に何度かコンタクトを取り続け、ついに!会ってくれることになったのです。その時は子どもにも母国を見せてあげたかったので、連れて行きました」

これまで日本で一人で教えてきたことをすべて正直に話した。クリスティン先生は、じっと長男を見つめ、突然「あなたは演じているお母さんのお芝居を観ましたか?それは好きでしたか?」と聞いたそうだ。長男が「いつもと違う母だけれど、好きだ」と答えると、先生はとても喜んで、「いま、この場でオーディションは合格した。日本は遠い国だから、あなたがどんな風に教えようと私は構わない。けれども、あなたがそうしたいのであれば、来年の夏にボストンで3週間行う講師資格習得訓練に参加しますか?」と言われ、登坂さんは即答で参加することを決めた。

その強化訓練の時期は、長男は大学受験、次男は高校受験の夏。ふたりきりで、猫の面倒もみながらしっかりと生活していたそうだ。

「後ろめたさがないと言ったら嘘になります。子どもとのかけがえのない時間はあっという間です。母親が家にいてあげられたらよかったと思うこともありました。ですが、こういう風に生きていく母を彼らは受け止め、応援してくれていると思います。感謝しています」

タカラジェンヌや若手歌手、議員まで指導

足掛け2年のプログラムを終え、無事に資格を取得した登坂さんのもとでは、舞台演出家、音大の声楽科の人、ダンサー、医大生、教員を目指す人や議員さん、ドラマの主題歌を歌うような歌手まで様々な人が学んでいる。そして2015年の『ME AND MY GIRL』の演技指導をきっかけに、多くのタカラジェンヌへの指導を続けている。

「師匠であるクリスティン先生が、昨年亡くなりました。彼女から〝あなたの国のあなたの言語、文化であなたのヴォイスを見つけなさい。私のオールドファッションのリンクレイターヴォイスにすがりついてはいけない〟と言われたんです。

今はお茶を習ったりして、日本の文化を改めて見つめ直しています。私が幼いころから大好きな漫画にもヒントが隠れていました。プレッシャーもありますが、彼女のメソッドを日本語に落とし込んでこそ見えるものがあると信じています。そしてそこから新生していくこと、教えることは私にとって芸術そのものなのです」

運命に導かれるようにして、ヴォイス講師になった登坂さん。宝塚歌劇団に新しいカタチで関わることで、タカラジェンヌたちの新しい才能を輝かせていくのだろう。

  • 取材・文上紙夏歡

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