元マル暴刑事が「ヤクザの刺青」を撮るようになった深い理由 | FRIDAYデジタル

元マル暴刑事が「ヤクザの刺青」を撮るようになった深い理由

起源は40年以上前のとある事件にあった

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警視庁で長年にわたって組織犯罪対策に従事してきた櫻井氏
警視庁で長年にわたって組織犯罪対策に従事してきた櫻井氏

欧米の人気ミュージシャンや映画俳優らの影響からか、ファッションの一部として若者の間でタトゥーが人気となっている。しかし、ヤクザ映画の影響もあり、一般的に暴力団組員らが背中に「刺青」を入れているとイメージされるようだ。実際に多くの暴力団幹部の背中には刺青があり、背中全面から手首までとほぼ上半身全体の場合や、胸や腕の一部などさまざまだ。

刺青を入れるのは伝統的な習慣とされており、暴力団幹部らは「カタギ(一般)の社会との決別のため」と表現する。一方で、警察当局からの観点で暴力団幹部らの刺青の撮影を続けてきたマル暴捜査官もいた。警視庁組織犯罪対策部などで40年近くにわたり暴力団犯罪捜査を続け、退職後のこのほど、「マル暴 警視庁暴力団担当刑事」(小学館新書)を上梓した櫻井裕一氏がその理由について語った。

山口組のトップを撃った男

「自分が逮捕したホシ(容疑者)が殺されて、どこかで捨てられるようなことがあったとしても『無縁仏』にはしないという気持ちで、相手のヤクザに対しては、そのような説明をしてから写真を撮っていた」

櫻井氏は暴力団幹部たちの背中の刺青の撮影してきた理由をこのように強調した。

撮影を始めた理由は、1978年7月に発生した3代目山口組組長襲撃事件だった。当時の山口組組長、田岡一雄が京都市内のクラブ「べラミ」でくつろいでいたところ、対立状態にあった暴力団、松田組の組員、鳴海清が田岡に向けて拳銃を発砲。銃弾が田岡の首をかすめたという事件が発生した。事件後、鳴海の行方は分からなくなったが、同年9月に神戸市内の六甲山の山中で遺体となって発見された。

1915(大正4)年に結成された山口組は、当初は神戸市の地方組織に過ぎなかったが、田岡が戦後間もない1946(昭和21)年に3代目組長に就任すると全国へと進出して各地の暴力団組織と対立抗争を繰り広げ急激に組織を拡大させ、国内最大の暴力団組織へと押し上げた。6代目となった山口組では現在でも、田岡はカリスマとして神格化された存在だ。

田岡組長が撃たれたナイトクラブ「ベラミ」の店内
田岡組長が撃たれたナイトクラブ「ベラミ」の店内

それだけに、「田岡撃たれる」の衝撃は大きく、当時の山口組側から松田組への報復も苛烈だった。山口組と松田組との対立抗争は、「大阪戦争」と呼ばれており、田岡襲撃は「ベラミ事件」として長く語り継がれることになった。

鳴海の遺体は身元が判明しないよう、指紋は削り取られ歯も折られていた。さらに殺害されたのが夏の高温の時期だったためか、遺体は腐乱が進み身元の特定は困難とみられていた。ただ、背中の「天女」がデザインされた刺青の一部が判別できたため身元が判明した経緯があった。

なぜか刺青だけ残る

櫻井氏はこの事件を踏まえ、「自分がかかわったヤクザについては、殺されるようなことがあっても、無縁仏にならないようそこまで付き合う。最後まで面倒見るという気持ちだった。受け取る相手側の気持ちまでは分からないが、駆け引きというか言葉のやり取りで、相手も自分を見て納得してくれたのでは。150人ぐらいの刺青を撮影した」と当時の心情を語った。

さらに、「ヤクザは自分の刺青を隠したいのではなく、見せたいという気持ちもなかにはある。『(撮影をしっかりと)頼みますよ』と服を脱ぐだけでなく、パンツまで下ろしたのもいた。『いいでしょう』と背中の刺青についての自慢もあった」とも明かした。撮影した刺青の写真はその暴力団組員たちの資料とともにノートに記録してきたという。

櫻井氏は著書のなかで、「私が捕まえたホシが、事件後、再びヤクザ社会に戻り、鳴海のような最期を遂げても、無縁仏にはしない――私は、マル暴としての自分の覚悟を、そこに定めた」と当時の決意を記している。

刺青によって遺体の身元が判明した訳ではないが、暴力団犯罪捜査に長年にわたり携わってきた警察当局の幹部が同じような体験について語った。

「かなり以前の話になるが、ある暴力団組織同士の間でのトラブルがあり、片方の組織の幹部が行方不明となった。このために対立するヤクザの幹部を取り調べたら、殺害を認めたうえで山中に埋めたと自供した」

供述に基づいて山中に分け入り埋めたとされた場所を掘り返した。すると供述通りに地中に遺体を発見した。3代目山口組組長の襲撃犯同様に、遺体はほぼ全身の腐乱がかなり進んでいたという。「しかし、背中の刺青だけは柄まで分かるほどしっかりと残っていた。刺青の色素は腐らずにそのままの状態だった。これは不思議なものだと思った」と振り返った。

                  (一部敬称略)

  • 取材・文尾島正洋

    ノンフィクションライター。産経新聞社で警察庁記者クラブ、警視庁キャップ、神奈川県警キャップ、司法記者クラブ、国税庁記者クラブなどを担当し、フリーに。著書に『総会屋とバブル』(文春新書)

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