警察当局によって確認された山口組分裂騒動「最新勢力図」
6代目と神戸の勢力差は「8対1」にまで……
国内最大の暴力団、6代目山口組が2015年8月に分裂し、離脱した神戸山口組との対立抗争状態は2022年を迎えて8年目となった。暴力団をめぐっては、資金獲得活動を強く規制した暴力団排除条例が2011年までに全国で整備されて以降、近年の全国の勢力は減少傾向が続いている。こうした傾向は6代目山口組、神戸山口組についても同じだ。
しかし、2021年になってある異変が起きていた。6代目山口組の構成員は約4000人となり、2020年から約200人増加していたことが警察当局によって確認されたのだ。暴排条例施行以降、増員は初のことだった。一方の神戸山口組は減少に歯止めがかからず、約500人と前年から半減以下となり勢力は大きく縮小した。
6代目山口組と神戸山口組の勢力差は8対1と圧倒的に開いているのが「最新勢力図」となっている。
実質的には約500人増
分裂前の2014年の6代目山口組の構成員は約1万300人だったが、神戸山口組の離脱で大きく減少。2015年の分裂時の6代目山口組の構成員は1万人を大きく割り込み約6000人で、神戸山口組は約2800人が確認されていた。
国内最大組織といえども暴排条例の影響のため脱退者が相次いでいたことは、警察庁の統計にも表れている。警察庁によると、6代目山口組の構成員は、2017年約4700人▽2018年約4400人▽2019年約4100人▽2020年約3800人と最近は毎年のように約300人ずつ減少していた。
この傾向が進めば2021年には約3500人となることが予測されるところだったが、約4000人と2020年から約200人の増加となった。暴排条例などの影響から自然減もあるなかでの増員となり、実質的には約500人の増加とみられる。
ヤクザ業界の「金看板」
6代目山口組の勢力拡大について、警察当局の幹部は、「山健組の復帰が大きい」と指摘する。山健組とは、山口組内で現在でも神格化されている3代目組長の田岡一雄のもとで、長くナンバー2である若頭を務めた山本健一が創設した組織だ。山口組内で長年にわたり保守本流とされ、中核組織であり続けた。
関東に拠点を構える指定暴力団の古参幹部は、「ヤマケンといえば山口組内だけでなく、ヤクザの業界全体でみても間違いなく金看板、ブランドと言える。ヤマケンの組員は、全国どこでも『山口組山健組の…』と名乗らずとも、『ヤマケンの…』と名乗れば通用する。それだけの存在だ。ヤマケンの名に憧れて入門する者も多い」と解説する。

神戸山口組内でも中核組織として位置づけられていたが、山健組は2020年7月、離脱を表明し一時期は事実上の独立組織となっていた。警察庁は当時、「山健組が各方面に独立をアナウンスしていることは承知している。しかし、現段階では独立を認めていない。神戸山口組の傘下組織、2次団体として暴力団対策法の規制の対象だ」としていた。
警察当局が危惧していたのは、暴対法で規定された指定暴力団でなく独立組織として認めるとなると、他組織との対立抗争時の事務所の使用制限や繁華街の飲食店などからのみかじめ料の徴収の禁止などの規制の対象から外れることになることだった。言わば、町内会や趣味の同好会などと同じ任意団体としての位置づけとなることを意味していた。
結成時の2割以下に
だが、山健組の活動は神戸山口組とは一線を画すようになり、次第に独立組織として認めざるを得ない状況になっていた。警察当局は山健組を暴対法に基づいて独立した指定暴力団とする作業の準備をしていたところの2021年9月、驚愕の情報が舞い込んだ。山健組が6代目山口組の傘下組織として復帰したのだった。
山健組は神戸山口組の傘下であった時期も組織内の最大勢力だった。それだけに、神戸山口組にとって山健組が離脱し、そのうえ対立する6代目山口組に復帰した痛手は大きかった。
分裂時に約2800人だった神戸山口組から、任侠団体山口組(当時)が離脱した影響もあり、2018年には約1700人に減少した。その後も減少を続け2020年には約1200人となっていた。山健組の離脱といった大きな影響もあり、2021年には約500人にまで急激に勢力が縮小した。
逆に6代目山口組は山健組復帰の効果で約4000人へと増加した。この結果、神戸山口組は6代目山口組の8分の1と、勢力差は圧倒的となった。神戸山口組は分裂時には約2800人だったため、現状は結成時の約18%、2割を切る事態となっている。
抗争が終わる条件とは?
最新の勢力図では6代目山口組が優勢となっている対立抗争の今後について、警察当局の幹部は、「6代目(山口組)側が有利な情勢となっても、神戸側が『山口組』の看板を下ろさない限り対立は終わらないだろう」との見方を示す。
「山口組がかつて分裂して、山口組と一和会の間で大抗争となってしまい多くの死者を出した『山一抗争』(1984~89年)では、一和会は山口組の看板と代紋を捨て去ってしまった。シノギ(資金獲得活動)にしても内部の統制にしても、山口組という名称と、山菱の代紋はシンボルとして重要だった」
そのうえで、「山口組という名称を捨ててはならないという、山一抗争の教訓は残っているはずだ。だから6代目側も神戸側も、山口組という名称にこだわっている。どちらも山口組を名乗っている以上は、抗争は終わらないだろう」との見通しを明かした。(文中敬称略)
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取材・文:尾島正洋
ノンフィクションライター。産経新聞社で警察庁記者クラブ、警視庁キャップ、神奈川県警キャップ、司法記者クラブ、国税庁記者クラブなどを担当し、フリーに。著書に『総会屋とバブル』(文春新書)
撮影:濱﨑慎治