前田忠明さん死去 芸能リポーター仲間の石川敏男が感じたワイドショーの「全盛期と凋落」
芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”
《芸能リポーター・石川敏男の芸能界“あの出来事のウラ側は……”》
芸能リポーターの大先輩・前田忠明さんが2か月半前に亡くなっていたニュースに悲しい思いをした。81歳だった。
ワイドショーで芸能ニュースが華やかだったころは、それぞれの番組に年間契約で籍を置いていた芸能リポーターたちがいた。その形が変わったのは、芸能人のプライベート問題を本人たちが直接ファックスで伝え出したあたりから。そして、それはSNSに繋がっていく。
もちろん、コンプライアンスの問題もある。
歌舞伎役者である中村橋之助(当時)さんと三田寛子さんの結婚問題で、父親である中村芝翫(当時)さんを東銀座の歌舞伎座から有楽町までマイクを突き出してインタビューを試みたこともあった。
一言もしゃべってもらえなかった中での直撃取材。考えてみたら迷惑な話だ。
その取材から約1時間後、歌舞伎俳優が所属する松竹から
「人間国宝に何てことしてくれてるんですか」
と、怒りの電話が入った。もちろん放送はできなかったが、徒歩で約1キロの道のりを答えてもらえないインタビュー。その橋之助さんは三田さんとその後結婚し、父親の大名跡“芝翫”を継いでいる。
一つ思い出したが、取材という名のもとに、“何でもアリ”の取材を続けてきたことも事実だった。
ワイドショーには、今とは違い予算が豊富にあったから
「こんなニュースがありますよ。ハワイですが」
と、打ち合わせで出た新情報には、番組から‟即、OK”が出た時代だ。リポーターは常に、パスポートを持っていた。
夜の便でハワイに向かい、ホテルで朝食を食べていた女優さんとお母さんを直撃。インタビューに成功して午後便で日本に帰ってきたことも。
また別の日は、香港に俳優を追いかけて行って、インタビュー成功。ホテルで3時間の仮眠をとり帰国。成田空港の取材用ブースから生放送で伝えたこともあった。
考えてみたら、それらすべて番組に予算があったからこそできたことだ。
先駆者だったテレビ朝日の梨元勝さん・福岡翼さん、須藤甚一郎さん。TBSの鬼沢慶一さんにフジテレビの前田さん。そして日本テレビは石川と、視聴者からは色分けされていたような時代。仲間意識もあったが、みんながライバルだった。
スタッフも含めて番組作りが楽しくてしょうがない人たちが多くいた時代。つい懐かしんでしまうが、梨さんが亡くなり、翼さん、鬼さん、甚さん、前忠さんも亡くなってしまった…。
76歳になるオレは、たった一人が取り残された感じだ。
先輩たちは、リポーターという職業に誇りをもって取り組んでいたようだったが、たった一人、運だけで、松竹、週刊誌記者と渡り歩いてきたオレ。
女性週刊誌のフリーの記者だった梨さん、甚さん、前忠さん。女性週刊誌の社員編集者だった翼さん。スポーツ新聞の記者だった鬼さんらが、日本のワイドショーを大騒ぎさせてきた。
もう30年前の話かな。コロナになって、人との付き合いも大きく変わりつつある昨今。ワイドショーも大きく変わったな。
番組に専属で関わる芸能リポーターは、全くいなくなってしまったし、みんなが出演料という形での番組との付き合い。時代が新しい芸能ニュースを求めているのかもしれないが、芸能人がバラエティ番組の中で自分の出来事を話すようになってからは、記者会見も数少なくなってしまった。
皆さんのご冥福をお祈りしながら、オレの今後を考えなくちゃね。
「あいつ、何も才能がないのにやたら、長生きだな」
と、言われないように…。合掌。
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文:石川敏男(芸能レポーター)
‘46年生まれ、東京都出身。松竹宣伝部→女性誌記者→芸能レポーターという異色の経歴の持ち主。『ザ・ワイド』『情報ライブ ミヤネ屋』(ともに日本テレビ系)などで活躍後、現在は『めんたいワイド』(福岡放送)、『す・またん』(読売テレビ)、レインボータウンFMにレギュラー出演中
写真:産経新聞社