75年4月13日 解散ライブで「全てを燃やした」キャロルの美 | FRIDAYデジタル

75年4月13日 解散ライブで「全てを燃やした」キャロルの美

細田昌志の芸能時空探偵③

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伝説のロックバンド・キャロル(74年、共同フォト)

<芸能時空探偵③>

現在、貼り紙でメンバーを募集するバンドマンは、どのくらいいるのだろうか。

もちろん、皆無とは思わないが、SNSの比ではないだろう。TwitterやFacebookでは、メンバー募集を目的としたアカウントがいくつも確認できる。それでも、インターネットのない時代は、貼り紙でメンバーを集めるのが最も手っ取り早かった。

1972年早春。川崎市内の楽器店の壁に、一枚のメンバー募集の紙が貼られた。

「ビートルズとロックンロール 好きなヤツ求ム!」

貼ったのは広島出身の22歳のバンドマン、矢沢永吉である。

この貼り紙を見て、電話をかけたのが19歳の大倉洋一。のちのジョニー大倉である。

ここからキャロルが始まった。

活動期間はたったの3年

46年前の1975年4月13日は、ロックバンドのキャロルが解散コンサートを行った日である。

活動期間はたったの3年。濃密な3年間だったに違いないが、知名度の割に実相がさほど語られていないのも事実である。

筆者は5年前、『週刊現代』の人気連載「熱討スタジアム」で「伝説のロックバンド・キャロルを語ろう」という企画を編集部に提案した。即座に「GO」が出た。ここから3人のパネリストの人選に入る。それも担当するライターの任務である。

さすがに矢沢永吉が出てくれるはずはないが、「内海さんなら」と思った。というのも、キャロルの元メンバー、内海利勝とは面識があった。自身が構成作家として関わっていたテレビ番組にゲストとして出演してもらったこともある。この企画も快諾してくれると高を括っていたが、返事は「NO」だった。

「ごめん、それはパス。勘弁して」

複雑な事情がありそうだったが、詳しい理由は判らない。

次に同じく元メンバーのユウ岡崎に連絡を入れた。彼には、ジョニー大倉が他界した折、『FRIDAY』の誌面に載せる追悼コメントを貰ったことがあった。今度も堅いだろうと思ったが「悪いねえ」という返答だった。

そこで、当時キャロルの周辺にいた人物に片っ端から当たった。パネリストが3人決まれば企画は成立する。「まあ、なんとかなる」と呑気に構えていたが、ことごとく断られた。応諾してくれたのは、なぎら健壱ただ一人である。

結局、企画はポシャった。なぎら氏のマネージャーに「一旦バラします」と詫びの電話を入れた。最近聞いた話だが、数年後に別のライターが、同じ連載でキャロルをテーマとした企画を提案したものの、やはりパネリストの人選に難航し、ポシャったという。

キャロルに触れることはタブーなのか? 伏魔殿なのか? ブラックボックスなのか? なぜ、なぎら健壱だけが引き受けようとしてくれたのか?

そもそも、キャロルとはどんなバンドだったのだろう。

運命を変えたきっかけ

3年間の活動期間においていささか変遷しているが、矢沢永吉(Base Vo)、ジョニー大倉(Guitar Vo)、内海利勝(Guitar Vo)ユウ岡崎(Drums)が主要なメンバーとなる。

「キャロル」という名付け親はジョニー大倉である。

当初はディスコやキャバレーで演奏する「ハコバン」だったが、バンドの運命を変えたのは、あるテレビ番組だった。

話は脱線する。往年の人気音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』(フジテレビ)において、勇退する芳村真理の後釜として俳優の柴俊夫がキャスティングされた。古舘伊知郎との異色の男性コンビである。

当時、高校生だった筆者は「なんで時代劇や刑事役の柴俊夫が、音楽番組の司会に?」と訝しく思ったものだが、実は彼は若手俳優時代に、同じフジテレビの音楽番組で司会を務めていたことを後で知った。

それが、キャロルが世に出るきっかけとなった『リブ・ヤング!』(1972.4.2~1975.3.29)である。

キャロルが『リブ・ヤング!』に出演したのは、ゲストという扱いではない。「ロキシーファッション大募集」という素人出場コーナーに、ジョニー大倉がハガキを送ったのである。ここで即座に採用されなかったことが、結果的に幸運をもたらそうとは、誰も予想はできなかっただろう。

ジョニーの自宅に「不採用」の通知が届いてから、物事は具体的に動き出す。矢沢永吉が怒りに任せてフジテレビに何度も電話をかけたのだ。

「俺たちは革ジャンの上下で演奏しているロックンロールバンドで……」

と捲し立てたというが、実はその時点でまだ革ジャンを着用していなかったことは、自伝『成りあがり』(小学館)に詳しい。

テレビ番組のスタッフに対するこの手の視聴者の売り込みは、実のところそれほど珍しくない。構成作家だった筆者もスタッフルームにかかって来る「アーティスト」「パフォーマー」「カウンセラー」「ヒーラー」の電話を取ったことがないわけでもない。

ただし、構成作家にはキャスティングを確約できるまでの権限はなく、「何か資料となるものを送って下さい」と言うしかなかった。彼らの熱意は陽の目をみることはなかったと思う。なぜなら「資料」が送られても、スタッフの誰も関心を払わなかったからだ。

同様に『リブ・ヤング!』のスタッフも、しつこく電話をかけて来る矢沢永吉に「じゃあ、演奏しているカセットテープとプロフィールを送って」と伝えたという。断る口実だったのかもしれない。

このとき、番組の総合演出を担っていたのが、後年『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』『とんねるずのみなさんのおかげです』などを手掛けた石田弘(現・フジテレビジョン人事局付嘱託エグゼクティブプロデューサー)だった。ヒットメーカーの嗅覚が優れているのは道理ではあるが「なんかよくわかんないけど、面白そうじゃん」とキャロルを番組に出演させたのだ。

後年、ほとんどテレビ番組に出演しなかった矢沢永吉が、石田の担当する番組にだけは出演を応諾したのも、このときの経緯に由来する。何が幸いするか判らないのは、出る側だけに限ったことではないのである。

晴れて『リブ・ヤング!』に出演したキャロルだが、たまたま番組を視聴していたミッキー・カーチスがすぐにフジテレビに電話を入れて、そこからとんとん拍子にメジャーデビューが決まった。この挿話は音楽ファンなら一度は聞いたことがあるかもしれない。

そんな劇的なデビューをはたしながら、冒頭でも触れたように、3年間の活動期間は、知名度ほどに伝わっていないのは奇妙である。

せんだみつおが司会をしていた夕方の若者向けバラエティ番組『ぎんざNOW!』(TBS)の木曜レギュラーに抜擢され、格段に知名度を上げたこと。

今では常識となった英語と日本語をミックスさせた作詞法は、実はジョニー大倉の発案であること。

ユーミンの初期の代表曲『ルージュの伝言』は、キャロル時代の矢沢永吉と前妻のエピソードに由来して作られたこと。

加藤和彦率いるサディスティック・ミカ・バンドとタイバンで一緒にツアーを回って、毎晩、宴会でどんちゃん騒ぎをしていたこと。

キャロルのドキュメンタリー番組を制作したNHKディレクターの龍村仁が、そのオンエアをめぐって、勤務先のNHKと揉めに揉め、退職までしていること。……等々。

活動期間ですらそうなのだから、1975年4月13日の解散コンサートも、思いのほかベールに包まれていると言っていいのかもしれない。

筆者の手許には『燃えつきる・キャロルラストライブ』というVHSテープと、『燃えつきる‐キャロル・ラスト・ライブ!!』というCDがある。VHSを再生すると、スカジャンにアポロキャップ、サングラスという一見いかがわしい長身の男が「キャロル今日で解散するんだけど、どう思う?」などと客にインタビューをして回っている。若き日の舘ひろしである。当時、キャロルの親衛隊「クールス」のメンバーだったのだ。

程なくしてライブが始まる。パフォーマンスがキレッキレなのは当然としても、問題は客席である。右に左にの大騒ぎで、中には客同士で喧嘩をしている様子も窺える。何人もの関係者がステージに上がって、身振り手振りで座るように訴えるが、どことなく手慣れた様子にも映る。解散コンサート特有の湿っぽさは欠片もない。

解散コンサートらしくないのは、会場の日比谷野外音楽堂に姿を見せたゲストの紹介をしていることもそうだ。本来なら打ち上げでやるべきことかもしれない。

内田裕也、ゴールデンカップスのデイブ平尾、ガロの大野真澄、海援隊の武田鉄矢、クールスのひろしちゃん(舘ひろし)とコーちゃん(岩城滉一)、前座を務めたハニーズ。

そんな中で「フォーク界唯一の友達」として万雷の拍手で迎えられたのが、なぎら健壱である。彼だけが件の『週刊現代』の鼎談に応じようとしてくれた理由はここにあった。

そんな異様な解散コンサートだが、白眉は照明が引火して、セットが燃えたことである。

CDを聴くと最後曲『ラストチャンス』の残り1分あたりから、消火器の噴射音とおぼしき雑音が耳に入る。次いで消防車のサイレンも聞こえる。もはや普通の火災である。

であるのに、観客は演出の一環だと勘違いして、さしたる混乱が起きなかったのは不幸中の幸いだった。VTRを見る限り火は収まる気配もなく、昭和の大河ドラマのように、セットを燃やしまくっている。

しかし最も驚くべきは、その様子を躊躇なく映像に収めて、ビデオやアルバムのタイトルにまでしていることである。不始末を売りにしているのだ。前代未聞どころの話ではない。

そしてそれは、「最初から、なーんにもなかった」と言いたいように、3年間の活動履歴まで焼き尽くしたのかもしれない。

(敬称略)

  • 取材・文細田昌志

    ノンフィクション作家。1971年岡山市生まれ。鳥取市育ち。サムライTVキャスターをへて放送作家に転身。テレビやラジオを担当しながら、雑誌やWEBに寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社)、『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)、近著に『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)がある。

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