ドリフ幕府を落城させた『ひょうきん族』が初めて現れた瞬間 | FRIDAYデジタル

ドリフ幕府を落城させた『ひょうきん族』が初めて現れた瞬間

芸能時空探偵④81年5月16日、バラエティの歴史が動いた

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当初、『ひょうきん族』にはツービートの二人で出演していた(共同フォト)
当初、『ひょうきん族』にはツービートの二人で出演していた(共同フォト)

ひっそりと、実験的に始まった

個人的な話から始まって恐縮だが、筆者は大の会津びいきである。

幕末の戊辰戦争における大激戦「会津戦争」の折、30藩からなる新政府軍に対し頑強に抵抗した会津武士には、判官びいきというだけではない美学を感じている。

御三家や親藩、譜代大名までが薩長の驥尾に付して会津に攻め込む中、最後まで徳川宗家に殉じた。なかなか出来ることではない。

筆者にも似たようなメンタリティが息づいている──そのことを初めて自覚したのは、実はあるテレビ番組がきっかけだった。

40年前の今日、1981年5月16日、土曜日。この日は『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)がスタートした日である。新聞のラテ蘭に「新番組」と記されている。

しかし、「てれびのスキマ」ことフリーライターの戸部田誠は、著書『1989年のテレビっ子』(双葉社)で、この第1回目オンエアを指して《レギュラー放送が始まる前のお試し的な意味合いで単発の特別番組として放送された》と書いている。その期間は7回に及び、「7回もあればいろいろ実験できるし、うまくいけばレギュラーになるからがんばろう、と思っていました」という当時番組ディレクターだった佐藤義和の証言もある。

後年、テレビバラエティ史に燦然と輝くことになる『オレたちひょうきん族』は、こうしてひっそりと、実験的に始まったのだ。

気になる第1回目の内容は次の通り。

《目下、売り出し中のお笑いタレントが繰り広げるギャグ満載のバラエティーショー。一回目の出演はツービート。島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、B&B、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、明石家さんま、春風亭小朝。

洋八、きよし、竜介といえば、洋七、たけし、紳助のつっこみにうなずき合いの手を入れる側。この三人がトリオを組み、一風変わった漫才を披露。そのほか、ツービート主演のギャグドラマ「衝動殺人」など》(1981年5月16日付/日刊スポーツ)

この時代に土曜夜8時を制していたのは、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』(TBS系)である。小4だった筆者も熱心な視聴者で、クラスメイトの9割が『全員集合』を視ていた。残りの1割は「ドリフ禁止令」が出ていた家の子供だった。

この日のメインのコントは「ドリフの香港ギャング団! 縄張りを守れ」で、ゲストは沢田研二、八代亜紀、岩崎宏美、山川豊。視聴率は30・5%というから人気の程が判る。ちなみに『ひょうきん族』第1回目の視聴率は9・5%だった。

堅固なドリフ幕府の裏でゲリラのように出没した『ひょうきん族』だったが、第4回目(6月13日)に10・1%、第5回目(6月27日)に10・4%と2回連続で二桁に乗せると、お試し期間最終日の第7回目(7月18日)で13・4%をマーク。晴れて10月からのレギュラー枠を射止めた。

じわじわと台頭…その理由は

とはいえ、『ひょうきん族』が当時の小4の話題にのぼることはなかった。相変わらず月曜の朝、教室で盛り上がるのは「志村がどうした」「カトちゃんがこうした」だった。

それでも筆者は一度、CM中に『ひょうきん族』にチャンネルを変えてみたことがある。複数の大人がガヤガヤしている様子が映し出され、すぐに『全員集合』に戻した。理由は明快。漫才をやっていなかったからだ。

この前年、日本列島を席巻した「マンザイブーム」には筆者も翻弄された一人である。B&B、ザ・ぼんち、ツービート、紳助・竜介、のりお・よしお、やすこ・けいこ……。どのチャンネルを回しても漫才が見られた。テレビ史的に81年はブームの退潮期とされるが、筆者個人は飽きずに視ていた。

そのメンバーが出演しているのなら、当然漫才をやっていると思ったが、やっていなかった。それだけのことである。以後、CM中にチャンネルを回すことはなくなった。

その後も『全員集合』は高視聴率を獲得し続けた。幕府は永遠に続くかに思われたが、綻びは意外なところから表れた。

1982年1月2日、各局が正月特番を揃える中、TBSは『全員集合』の通常のレギュラーをオンエアしている。出演者もスタッフも、いつ休んでいたのかつくづく不思議だ。

平均30%超の高視聴率を叩き出してきた『全員集合』だが、この新年一発目は17・2%。20%さえ割ってしまう。筆者は国会図書館に赴き、新聞のラテ欄を見てこの日の裏番組を把捉した。『欽ちゃんの仮想大賞』(日本テレビ)、『Dr.スランプアラレちゃんスペシャル』(フジテレビ)、『俺は男だ!あばれはっちゃくスペシャル』(テレビ朝日)、『新年大型時代劇・竜馬がゆく』(テレビ東京)、『初春民謡大絵巻』(NHK総合)が並ぶ。

ここで注目したいのは『アラレちゃん』と『あばれはっちゃく』である。つまり、子供をターゲットにしたものが二つも裏に来られると、ドリフと言えど思うように数字が取れないことを露呈したのだ。抜け目ないこの時代のテレビマンが、そのことを見逃さなかったはずがない。

そして1982年、『ひょうきん族』はじわじわと台頭する。

はっきり記憶していることがある。小5に進級してクラス替えがあった。新しいクラスメイトの何人かが『ひょうきん族』を視ていたのだ。全体の3割くらいだったと思うが、ちょっとしたカルチャーショックを受けた。

それは視聴率にも表れている。『全員集合』の数字が29、28、27と30%を割るようになったのである(それでも相当高い数字ではあるのだが)。

さらに『ひょうきん族』のキャラクターは番組以外にも露出するようになっていた。例えば、前年まではドリフ(とイモ欽トリオ)独占の感のあった『小学〇年生シリーズ』(小学館)に、タケちゃんマンの姿が散見され始める。『小学六年生』(1982年6月号)では「これが『オレたちひょうきん族』だ!」という特集記事がカラー6ページで大々的に組まれ、9月号では「タケちゃんマンのひょうきんクイズ」というコミックページが設けられた。

そして、レギュラー正式決定から1年後の1982年10月9日、『オレたちひょうきん族』(19・4%)は『8時だョ!全員集合』(19・1%)に初めて勝利を収めた。

ここから本格的に「土8戦争」の火蓋が切り落とされたと言っていい。『小学五年生』(1982年12月号)では「ドリフ対タケちゃんマン クイズパーティでクルシミマス」と競争を煽るような特集記事が組まれている。

師走のある日のことである。プロ野球12球団のスター勢揃い的な番組がオンエアされた。巨人からはエースの江川卓と、若大将の原辰徳という投打のスターが出演した。巨人ファンだった筆者は噛りつくように視ていた。

仮装コーナーになったとき、原辰徳が「タッちゃんマン」、江川卓が「ブラックスグル」を名乗ってその恰好で現れると、場内は爆笑の渦となった。このとき江川27歳、原24歳。ヤングな彼らは嬉々として演じていた。『ひょうきん族』が若い世代の支持を集めていた証左と言えるのかもしれない。

この頃ともなると、鳥取市立城北小学校5年2組の視聴率も、「全員集合派」と「ひょうきん族派」の真っ二つに割れていた。

その内訳だが、高校生や中学生の兄や姉がいる子は「ひょうきん族派」。幼い弟や妹がいる子は「全員集合派」となる。

四歳上の兄のいる筆者だが「全員集合派」に属していた。これまた理由は明快である。

「ドリフを裏切るわけにいかない」という気分である。

物心ついたときから土曜の夜は『全員集合』とともにあった。ドリフターズは「週末の夜に必ず顔を出す知り合いのおじさん」といった感覚すら抱いていた。

にもかかわらず、それを拒んで別の来客を招き入れるわけにいかないだろう。

そんな、いじらしい子供心を知ってか知らずか、『ひょうきん族』の勢いは『全員集合』を凌駕していく。

1983年。記録上ではこの年の視聴率戦争は31勝11敗で『全員集合』が底力を見せているのだが、空気感は圧倒的に『ひょうきん族』に傾いていた。筆者の属する6年2組も、8割が「ひょうきん族派」に宗旨替えしていたように記憶する。

決定的だったのは、明石家さんま扮する「あみだババア」ではなかったか。

初登場は1983年5月7日とある。「あみだくじー、あみだくじー」という軽快な歌声が休み時間に教室のそこかしこから聞こえて来た。10月21日には桑田佳祐作詞・作曲で『あみだババアの唄』(あみだババア&タケちゃんマン)がリリースされてもいる。マスコミの話題も完全に独占していた。

それでも筆者は『全員集合』を視た。

「ここまで来たら絶対に見続ける。今さら裏切らない。最後の一人になっても視る。ひょうきん族は死んでも視ない」と決めた。幕府に殉じた会津武士の気分にも似ていた。もはや意地だった。

しかし、そんな無駄な武士道も徒労に終わる日が来た。

1985年9月28日、『8時だョ!全員集合』は16年間という長い歴史に終止符を打った。番組終了。時代の勢いには勝てなかった。ついに落城したのだ。

1986年。中学3年生になった筆者は、『全員集合』の後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を視聴していた。幕府は崩壊したが、家臣の再起に付き合おうということだ。

すると妙なことが起きた。クラスメイトの多くが『加トケン』を視聴するようになったのである。

アダモステの熱狂的ファンだったクラスメイトまでが「志村が、加藤が……」と憑依が解けたように口にし、イケてる女子までが、前半の探偵ドラマを話題にしていた。後半の「おもしろビデオコーナー」の秀逸さを口にする優等生もいた。何が起きているかすぐに理解できなかった。

生来のマイノリティ気質がもたげるのに、時間はかからなかった。ここに来てようやく筆者は『ひょうきん族』を見始めた。番組スタートから5年が経過していた。

そこには、僅かな手勢を率いて孤軍奮闘する若(明石家さんま)の姿があった。その姿は会津武士のように美しかった。

(敬称略)

  • 細田昌志

    ノンフィクション作家。1971年岡山市生まれ。鳥取市育ち。サムライTVキャスターをへて放送作家に転身。テレビやラジオを担当しながら、雑誌やWEBに寄稿。著書に『坂本龍馬はいなかった』(彩図社)、『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか』(イースト新書)、近著に『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)がある。

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