石原慎太郎死す 戦後を駆け抜けた作家・政治家の「子煩悩」な素顔
2月1日午後、石原慎太郎氏の死去が発表になった。89歳。
一橋大学在学中の1955年に『太陽の季節』で作家デビュー。芥川賞を受賞した。都会の放埒な若者を描いた作品は映画化され大ヒット。弟の裕次郎は、この作品でデビューしスターになった。「太陽族」という言葉も生まれ、慎太郎本人のクールなルックスとあいまって、大きなブームとなった。
そんな「若者代表」的作家は、1968年に参議院選挙に出馬、300万票を超える得票数で政界に転身した。さらに1999年には東京都知事に出馬し、初当選。2012年まで都知事を務めた。
「都知事時代の石原さんに太陽族の面影はなく、マッチョな言動が徐々に増えました。女性に対して差別的であったり、歯に衣着せぬ…と言えば聞こえはいいですが、ヘイト発言が多かった。今なら大炎上ものの暴言が、どんどん増えていきましたね」(政治部記者)
4人の子息は長男、三男が政治の道に進み、次男は気象予報士としてテレビタレントに。4男は「画家」になった。都知事時代には、その「画家」への不公正な支出が問題にもなった。
「政治的には強面だった石原さんだが、私生活ではとにかく子煩悩でした」
親交の深かった旧知の政界関係者はこう言う。
「家庭内ではバカがつくほどの子煩悩(こぼんのう)だった。先の衆院選挙で伸晃氏が落選したとの一報に、かすれた声でこう漏らしたんです。
『伸晃は落選だったか…。街頭(演説)で、何もしていないじゃないかと野次っていたあのおばちゃんは伸晃をよく見ていてくれたと感謝しないとな。確かに何もしていなかったからなぁ…』」
それでも、伸晃が可愛くて可愛くてたまらず、コロナの関係で東京・大田区の高級優良介護ホームに入居して、息子たちと会えないことがさみしくてたまらないと話していたという。
「伸晃くんを可愛がっていて、彼の政治活動をずいぶんと心配し、アドバイスもしていました。当時の安倍晋三首相に、『伸晃を頼む』と懇願したこともあったのです。あの世代にしては超子煩悩だったと思います」(自民重鎮議員)
晩年は、脳梗塞を患っていたという石原慎太郎氏。人気作家から政治家に転身し「アメリカの軛(くびき)から日本を解放したい」というのが石原慎太郎の願いだった。
「東京オリンピックにかこつけて、横田基地の民間利用を言い出したのも、日米地位協定改定の布石になるという思惑があったのは事実です。目指す政治の実現のために、様々な仕掛けができる政治家だった。いまの若い政治家には出来ない芸当だよ」(自民党重鎮)
戦後の日本を駆け抜けた「時代の寵児」だった。その最期は、愛しい息子たちに会えないまま息を引き取った。冥福を祈りたい。
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取材・文:岩城周太郎